85.曰く、地獄への片道は姫抱きで。
空の旅というものは、良いとも悪いとも判断が付けられないものであるらしい。
景色はいいが、下を見れば少し恐ろしい。
もの凄いスピードで空を駆けているのだが、何らかの魔法がかけられているのだろう。強い風は吹きつけず、時折そよ風が頬を撫でてゆく程度。
白い雲はグリフォンの翼に切り裂かれ、千切れ後ろへ消えてゆく。
鞍の座り心地も、大変に良い。揺れず、腰を打つこともない。
初心者は良く尻を痛めると言うが、やはり魔法の恩恵だろうか、一向に痛くなる気配はなかった。
だからまぁ、総じて心地はいいのだ。──良いのだが。
「……どうでしょう、少しは慣れましたか?」
「アッッッハイ! ナレマシタ! チョット!」
「高いところは苦手でしたか? 目隠しの魔法でも……」
「それ絶対今より怖いやつですごめんなさい許してください」
密着するシキミの背と、ジークの胸。
人間、運動してもいないのにこんなに心臓を痛くすることができるのか。初めて知った。──知りたくなかった……。
総じて心地のいい空の旅は、このどうしようもない一要素によって、素直に「心地よい」と言えないものへと変貌していた。
男だ、女だという話ではない。
顔のいい人間と密着するのは、結構心臓に悪くて辛いということだ。
何を言ってるのかわからないと思うのだが、自分でもよくわかっていない。
「……主人よ、気を紛らわせる話でもしたらどうだ」
「ああ! 良いですね。……さて、何の話にしましょう。……意識が飛んだな、と思ったら人身売買されかけてたとか。
「待って?」
あまりにも波乱万丈すぎる武勇伝に身震いがする。
しかし、脳裏に一瞬「ジークさんだから仕方ない」と諦めの文言が踊って脱力した。
どれもこれも気になって仕方がない。
ジークさんが売られる、とは。
偶々で迷い込める王宮、とは。
ジークさんが襲われる、とは。
単騎で一狩り行こうぜ、とは。
果たして一体何なのか。
今のジークさんの姿からは、想像できそうで、全くできない辺りが素晴らしいチョイスである。
さっきまで感じていた、羞恥とも照れともつかぬ気恥ずかしさは見事霧散し、空の旅路に幾ばくかの余裕ができた。
「それいつの話ですか……滅茶苦茶やんちゃしてるじゃないですか……」
「今も結構やんちゃですよ」
「ご冗談を……いや、シャレにならないんで、ホント」
「……怯えすぎだ」
馬を駆けるより速く、滑るように地面は流れる。
羽ばたく度に景色が変わるような、そんな心地さえするようだ。
空の景色はそう変わらないから、しっかりと支えてもらっていることを良いことに、シキミは少し遠くの地面ばかりを見ていた。
背面から迫る美の暴力にもやがて慣れ──否、何となく
沈みにゆく太陽を追いかけるように、野を越え山を越え。
やがて、遙か北へと続く大きく長い山脈が見え始めた。
「この山脈を越えたらもうすぐ到着です。また少し上昇しますよ。……馬車だと遠回りしないといけないんですよね」
なるほど、馬車で時間がかかるというのは、
少し遠くに見える山頂は、ゴツゴツした岩肌に、うっすらと雪を積もらせている。中々険しい山脈だ。
「お〜い!! 嬢ちゃん! もうすぐ着くぜ!」
「ついたら一度!! 野宿するわよ!! 夜に入るの嫌でしょう!!」
横に居並ぶ
口に手を当て、風に負けじと叫ぶ二人に、シキミは手を振って応える。
それなりに遠くへ来たらしい。地面の様子も随分変わった──と、何気なく下を見たとき、一つの物体を──そしてそれに続く、幾つもの動く影を──シキミの瞳は捉えた。
山脈に連なる、山の
屋根付きの、
その後に続く、大きな、人の形をしたようなモノ。──馬車は
「……ッ! ジークさんっ! アレっ!」
「えぇ、見てます──ミンタカ、一度降ります」
「……
「俺が。エレノアとテオへの伝達は頼みました」
「……
背を
さっきまでとは打って変わって、強く、真剣な光を宿した黒曜石が、
──来るか、残るか。
だから、頷いた。
いつか私も、問答無用で「行きますよ」と言ってもらえるようになりたいから。
ジークとミンタカの間で交わされた、短い会話に憧れる。
必要最低限の、余計なものを排した会話。
信頼の見え隠れする、不思議なやり取り。それが、とっても素敵で魅力的に思えたのだ。
それに、私だって戦える。
「……持っていきます」
「……
「ではシキミ。横抱きの状態で
胴に巻き付く左腕はそのままに、ジークの右腕が広げられる。
お姫様抱っこで
一つ、大きく息を吸って、覚悟を決める。
何がしたいかは良くわかる。何となく察しはついていた。
ジークの左腕に、寄りかかるように背を預けて、そのまま勢いで足を上げる。
随分乱暴なお姫様もいたもんだ、と自嘲して。難なく収まった身体は、今や完全にジークへと任されていた。
ミンタカの身体が旋回する。
疾走する
「……行け」
その言葉を合図に、ジークの足が
ふわりと浮かんだ彼の下を、グリフォンの影が駆け抜けた。
そのまま、二人分の質量を伴って、シキミ達は落ちてゆく。
ジークとの出会いのきっかけとなった、いつぞやの出来事を思い出す。でも、今度の着地はうまくいく──はず。
「舌を噛まないように気をつけてくださいね。……あと、目は閉じておいたほうがいいかもしれません。汚れるので」
「えっ?」
内蔵ごと空に置いてゆくような。見えぬ手に、地面へと引き寄せられてゆくような感覚がする。
だが、落ちてゆく間、風の音は聞こえなかった。巻き上げられることもなく、二人の身体は至極素直に落ちてゆく。
きっと、ミンタカの言う "風の加護" とやらの恩恵なのだろう。
広大な大地の気配を、背に感じて
全身を貫くような衝撃と共に聞こえた妙な音。
どちゃっ、とも、ぐちゃっ、ともつかない。水っぽいものを踏み抜いたような音がして──直後。降りかかる生暖かい血と、肉片と、砕けた骨の欠片に、シキミは度肝を抜かれた。
「……ひぎゃぁ!? なに!?」
「言ったでしょう、汚れますよと」
そっと見上げれば、盛大に血肉を浴びた、美しい男が微笑んでいる。
水も
「さて、あらかた殺せましたかね?」
そんないい笑顔で言う言葉じゃない、とは言えなかった。
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