8.曰く、勇者は常に魔王の対比。
いくら強かろうが、いくら頭が良かろうが。
最低限の常識がなければ世界という共同体の中では生きてゆけないわけで。
そんな中で記憶喪失──ではないけれど、正直それに近いというか、この世界では完全に記憶喪失な私がまともに生きられるわけがない。
だから彼の存在は渡りに船。藁どころか丸太に縋る思いで、
「ここは要塞都市アズリル。冒険者たちによる、冒険者たちのための街です」
ゲームの中では、始まりの森の近くにはスリンカという小さな村があったはずなのだが。どうやら似ているようで全く違う世界らしいぞ、と振り返った彼が言う聞き覚えのない都市名にシキミは認識を改めた。
目の前に堂々と聳える城壁を目の当たりにして、自然と身体に力が入る。その高く堅牢な壁は灰色の顔で
ここから先はもう本当に知らない世界なのだなぁ、と改めて思う。薄々そんな感じはしていたけれど。こう改めて明確な証拠を出されてしまうと、どうにも胸に来るものがある。
ここは私の持っていたゲーム時代の地理すらアテにならない、そんな世界なのだ。
アドバンテージばかりが削られて、なんだかもう大人しく降参したい気分になってきた。
もう私は駄目だ、気力が潰えた。あんたの勝ちだよ。
意地悪な神様万歳──いるかどうかは知らないけれど。
「俺達がさっきまでいた森は『原初の森』と呼ばれています。多くの魔物が棲息しているので、このアズリルの壁は近隣諸国を魔物から守るためのものでもあるんですよ」
「あそこ、原初の森と言うんですか」
「はい。貴女も俺も浅いところにいましたから大丈夫でしたが、更に奥はもう未開の地。ランクの高い冒険者ですらそう滅多には進みません……いえ、進めません」
私を素通りして、その後方。森の方角をひたと見つめる夜色の瞳に小さな焔が灯る。
それは憧憬のような、畏れのような何か。
狂おしく、身を
「魔王──だと思います」
森の向こうは
竜といえばファンタジー最強の一角。ここで引き合いにだしたのであれば、この世界でも最強の一翼を担っているのだろう。
「まおう、ですか。強くて怖くて、勇者に倒される──?」
「
「いるんですか、魔王」
「……どうでしょう」
「強いんですか、魔王」
「……多分」
でもここ十数年は静かなんですよ、俺は見たことがありませんから、と彼が
最近は静かだと言ったって、それはつまり討伐されるなり消滅させられるなりはしていない、ということじゃあないのか。
それではまるでいつ噴火するかわからない活火山だ。
「──勇者は、いらっしゃるんですか」
対抗できる何かがいるだけで少なくとも安心はできる。
ちなみに「自分が勇者だろう、わっはっは」などとは欠片も思っていない。
レベル1から上がれない勇者なんて勇者ではないし、仮に勇者ならもう自害して次の勇者を待ったほうがいい。
世のため人のために自害するのはやや業腹だが、魔王に引きちぎられるよりはマシだと思う。
だってあれだ、魔王は勇者の四肢を生きたまま引き裂いたり、内蔵を抉り出して踊り食いとかするんだろう。俺は詳しいんだ。
固唾を呑んでジークの答えを待てば「残念ながら、まだどこの国からも勇者の出現は発表されていません」と無慈悲に希望を打ち砕かれた。
「ですがそのほうがいいのです。勇者が現れれば、それはすなわち魔王の復活の証……平時に勇者など必要ない。ならば最初からいないほうが良い」
勇者は、敵を倒してこそ。
倒し、倒され。その非常な勇気を見せつける機会は時に大きな犠牲を伴うから。
世の中というものは突出した誰かを持たなくとも、緩やかに停滞しながらなんとか進むものだ。
穏やかな日本という国は、少なくとも楓が生まれた頃には勇者も英雄もいなかったが、それでもなんとか進んでいた。
必要がなかったのだろう。
私達は浸かったぬるま湯に、いつか冷たくなってしまう恐怖をふやけた胸のうちに仕舞い込みながらも留まっていた。そこに熱い湯を継ぎ足すことも、湯から上がることも良しとはしなかった。
そんなことしなくたって、急に冷えるような危険はなかったのだから当然といえば当然か。
この世界で勇者が魔王到来の証であり、動乱の時代の幕開けを知らせるブザー音であるのなら。やはりそれは、無くてもいい、無い方がいいものなのかもしれない。
「不安ですか?」
「いえ、安心しました」
「それは良かった」
緩やかな坂を、左右に様々な店に囲まれながら進んだ先。
ゆっくりと止まった会話にあわせて、二人の目の前に大きな建物が現れた。
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