第32話 夢の終わり
幕が上がると、そこはボーダーライトが一様に照らす、何の変哲もない舞台である。まるでまだ上演前のような、あるいは舞台が終わってしまって次の上演を準備している最中のような、そんな空間である。
だが、確かにそこは「始まりの前、終わりの後」であるともいえる。ならば、そこは何かが起こるにふさわしい場所であるといえる。
現実を揺るがせるにふさわしい事件が。
やがてそこに、無数の人影が現れる。それは、これから柱となり、人となり、波となる、無限の可能性を秘めた役者たちだ。
まず、彼らは幽霊が出現するエルシノア城の柱となる。
そこへホレイショーが現れ、続いて現れたマーセラスが語り掛けた。
《例のアレはまだ出ないらしいな、見張りの話では》
《ちっちっち、出やしないさ》
キザったらしく笑い飛ばすホレイショーに、マーセラスはムキになる。
《俺も見たのさ、夕べのこの時間に……》
やがて、幽霊役が袖から現れて、柱の間を通って消えた。再び現れると、なぜか客席からは笑いが聞こえる。
そして、ホレイショーは吼えた。
《何か伝えたいことがあるなら言ってみろ!》
すかさず、下手にあらわれた奈々枝が雄鶏の声帯模写をする。
《こけ~こ~!》
奈々枝が引っ込んだところで、マーセラスがわざとらしく叫んだ。
《消えた! 幽霊が消えた!》
幽霊が柱の乱立する向こうへすごすご退場すると、観客はどっと沸いた。ホレイショーも負けじと大騒ぎする。
《これは一大事! ハムレット様に、報告だ!》
二人が駆け去ると、柱は各々動いて並び方を変える。
並木も五十鈴も、相模もそこに立っているのに、1人だけそこにはいない。
陽花里だ。
次のシーンには、レイアーティーズが登場する。沙と交代しなければならないのだ。
「急いで!」
椅子に崩れ落ちていた沙が、ふらふら立ち上がって調光室を見渡す。
「あれ……私……陽花里センパイ?」
手を貸してやるしかないようだった。
「立てるか?」
バイオリンのような粘りつく声が尋ねる。
差し出された手に、沙はすがりついた。代わりに、調光室の椅子には陽花里が座る。
「宜しくお願いします、先生」
顧問の肩を借りて、シェイクスピアたる
無理をしてでも舞台に立つ気なのだろう、と彼は思った。
彼(いや、彼女と言うべきか?)が転生してから、ずっと顧問として見守ってきた、「時」の老人としては。
だが、少女の姿をとってもシェイクスピアはやはり「
だが、その意識が遠のいていくのは、見ているだけでも分かった。歩きかたに、魂がない。ただ、歩いているだけである。
「今……どの辺りですか?」
「大丈夫だ、クローディアスが長台詞で時間を稼いでいる」
そのセリフは、調光室から舞台まで響く通路にも聞こえてくる。
《我が兄、ハムレット王は死んだ》
《だが、悲しんでいる場合ではない》
《だから私は喜びにも涙を流すため、かつての姉を妃に迎えたのだ》
《さて、知っての通り、若きフォーティンブラスの野心はこちらを向いている》
《そこでノルウェー王に使いを出し、その力で目論見を挫こうと思うが……》
クローディアスの言葉が止まった。あと一言で、この長台詞は終わってしまう。
そのせいもあってか、一言一言を噛みしめるように、クローディアスは語り掛ける。その相手は、城内にいる者だけではない。クローディアスの目は、客席にも向けられている。
《……いかがであろう?》
間に合った。沙とクローディアスの目が、一瞬だけ合う。それを察したのか、舞台上の役者たちは、異口同音に答えた。
《異論ございません》
クローディアスはおもむろに、袖幕の奥にいる沙に向かって尋ねる。
《では、さて何の用であろうか、レイアーティーズ》
沙はふらつく足で歩きだそうとしたが、その場に膝をついた。会場スタッフが駆け寄ったが、顧問がそれを止めた。
「ご心配なく」
介抱してどうなるものでもない。身体ではなく、魂の問題なのだから。
そして、沙が立たなければ、芝居は進まない。
クローディアスが再び呼んだ。
《レイアーティーズ!》
やはり、沙は答えない。その場に崩れ落ちそうなのを顧問が支えて、舞台監督用に準備されている椅子に座らせた。
老人は思う。
これでは、もう芝居は続けられまい。最悪の結果になったが、これも運命というものだ、と。
だが、部員たちは諦めなかった。
ポローニアスがクローディアスの前にひざまずく。
《お許しください、まだ年端もない若造のすることです》
クローディアスはさもありなん、とでも言うように、ゆっくりと頷いた。そこで舞台袖の向こうへと、ありったけの声を絞り出す。
《何が望みだ、レイアーティーズ!》
ここで登場しなければ、この上演はそこで終わるのだった。
沙は椅子の背もたれに手をかけて立ち上がろうとする。だが、椅子の方が床を滑って、危うく仰向けに転がりそうになる。
顧問や会場スタッフが手を貸そうとしたが、沙は聞かない。何度となく手を振り払い、ようやく身体を起こした。
一歩、また一歩と歩きだす。
舞台へ向かって。
だが、一度与えられた時間を使い切り、魂がもとの時間へと帰ろうとしているときに、芝居などできようはずがない。
「もうやめろ、翁」
ヴァイオリンの響きのある声で止めたのは顧問であるが、それは「時」の老人としての意思でもあった。
舞台を愛するなら、晩節を汚すべきではない。劇場においても、人生においても。
それは、沙なら分かっているはずだった。
ウィリアム・シェイクスピアなら。
袖幕へと出ようとしていた足が止まる。真っすぐ支えられていた身体が、垂直に落ちる。
「危ない!」
スタッフの誰かが叫んだが、心配はいらなかった。
よく似た背格好の影が、沙の小柄な体を抱き留めていた。
「もういい、心配するな」
そしてその影は、クローディアスの招きに応じて、エルシノア城の中へと駆け出していった。
《陛下、我が学びの地、フランスへ帰るお許しを!》
そして、父ポローニアスの死を不審に思い、密かに帰ってきたレイアーティーズは、暴徒たちを率いて再びエルシノア城に現れる。
それをなだめたクローディアスは、ハムレット抹殺の共謀をもちかける。
《余はお前と哀しみを分かち合う。我が王国と王冠にかけて。さあ、胸にぽっかりと開いた穴を何で埋めようか》
小柄な身体いっぱいの尊大さをもって、レイアーティーズは一言で答える。
《真実》
《よかろう》
クローディアスは、落ち着いた低い声で告げた。
やがて、群衆は立ち位置を変えて城の柱となる。その間を歩く二人の間に交わされるのは、ハムレットへの憎悪の言葉だった。
《気高き父よ、狂気に沈んだ妹よ……許さんぞ、ハムレット》
怒りに震えるレイアーティーズを、クローディアスは遠回しに焚きつける。
《我らは愚かでもお人好しでもない、余は汝の父を愛し、我らは我ら自身を愛する……これより先はもう言うこともあるまい》
そこで柱がいきなり伝令となってひざまずき、ハムレットの手紙を差し出す。クローディアスが不安げに読み上げる。
《一文無しにて陛下の王国にあり。明日はご尊顔を拝し奉り、不可思議な帰還の顛末をお話いたしたく……》
そのうちに伝令はもとの柱へと戻ったが、この堂々とした嘘っぽさが芝居の面白いところである。
滞りなく、芝居は進んでいる。
もう充分だろう、ウィリアム・シェイクスピアにとっては。
だから、もう、あの顧問と同じ目でものを見る必要はなくなった。ウィリアム・シェイクスピアが
できるのは、客席からシェイクスピアと共に、彼の『ハムレット』を鑑賞することぐらいのものである。
「どうだ? 出来栄えは」
作者は目の前の作品からセリフを引用してみせる。
「
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