第31話 そして幕が上がる
大会3日目の朝を迎えた。
時間は午前8時。全ての部員……つまり、この『ハムレット』の役者たちは、張りつめた面持ちでナミキを見つめていた。
「とうとう、この時がやってきました」
いつになく重々しい声で、ナミキが告げる。
「思えば、いきなり部室が使えなくなって……」
バイオリンの粘りつくような音に似た声が、その言葉を遮った。
「長い話はいい」
顧問に都合の悪い話は打ち切られ、話題はその日のスケジュールに移った。
沙にとってはありがたい話だった。52歳の男が16歳の少女を演じるには、それなりの集中力が求められる。今はとても、そんな状態ではなかった。
意識が、どこか遠い彼方へ飛んでいきそうだったのだ。
なぜか、500年前のストラッドフォード・アポン・エイヴォンの水路が見える。最後に見たのは確か、死の直前だったか。
腐ったニシンに当たって死んだ、あのときの……。
そのつながりで、何となく、こうなった原因にも思い当たる。
昨夜、蒲生野高校で振る舞われた「ニシンソバ」を無理に食べたのがいけなかったのだ。
まともに考えたら、あの魚がニシンだと気付いた時点で、食べるのをやめなければならなかった。
だが、それがどうしてもできなかったのは、この時代、というより、この国に転生してしまったせいだろう。
どうもみんな、本当の気持ちを口にしないで無理ばかりしているのだ。ヒカリやナナエ、サガミやカサギはともかく、イスズやナミキ、そしてコモンとつきあっているうちに、その影響を受けてしまったらしい。
和やかな(これも500年前のイギリスにはなかった感覚だが)雰囲気を傷つけるまいと、危険を感じながらもついつい、ニシンを無理に食べてしまったのだ。
あの後、アラスの野で銃弾に倒れたシラノのように両膝をついたが、ふざけていると思われただけで済んだ。
シラノは鉄砲玉くらいでは死ななかったが、詩で恨みを買った相手の陰謀で窓から材木を落とされ、頭を砕かれて死んでしまう。
自分自身はどうなるのか、分からない。夕べから、身体に異状はない。ただただ、意識だけが遠くへ飛んでいくのだ。
500年前の、故郷へ。
「おい、沙」
いつの間にか、ナミキは「オキナ」ではなく、「イサゴ」と呼ぶようになっている。
どさくさ紛れに、と思ったとき、そこが調光室だということに気がついた。
目の前には、大きな机があって、幾筋もの切れ目が3段に渡って並んでいる。それにはすべてツマミがついているが、そのどれにも触ってはならないとヒカリが言っていた。
「モニター」とかいう画面を見れば、舞台監督のサガミが、下手の袖へと下がっていくのが見える。舞台の中央では、ヒカリが舞台の床と天井をかわるがわる見上げていた。
「やることなんか、何にもないのにな」
耳に当てた「インカム」とかいうものから、舞台袖の「インカム」使っているらしいをナミキの苦笑が聞こえてくる。見栄もしないのに、肩をすくめて応じることしかできない。
そこで、タイムキーパーの生徒が叫んだ。
「開演5分前です」
「はい!」
ナミキの声に合わせて、沙も返事をする。なぜか、こんなことをするのも最後なのだという気がした。
さらに、ぼそぼそと囁く声がする。
「これ終わっても、ちょくちょく来るよ」
「待ってます」
そうは言ったが、待っているのが自分自身だという保証はない。たぶん、そのときは、自分でない
そこへヒカリが戻ってきて、インカムからほにゃあとした声で告げた。
「準備完了だよ」
下手袖からコールがかかる。
「上演1分前アナウンス流します!」
「はい!」
最後の舞台が近づいてくる。客席に向かって、着席が案内される。
「まもなく、陵高校の上演です……」
1ベルと呼ばれるブザーが鳴る。2ベルが鳴れば、開演だ。
だが、よりにもよってその前に、再び意識が遠のいた。ただ、今までと違うのは、蘇ってくる光景である。
ニシンに当たって死ぬ瞬間、確か、考えたことがある。引退した先のストラッドフォード・アポン・エイヴォンの水路に煌く朝日を見ながら……。
もう一度だけ。
そのとき、見えたものがあった。
真っ白な桜の花が、冬の吹雪のように舞い散る中で歩く、制服姿の若者たち。東洋の瓦屋根。
ステージで稽古に励む、役者たち……。
「思い出したか」
どこからか聞こえる声と共に、目の前が、真っ暗になる。客席の照明が落ちたのだろうか……いや、それはない。それは2ベルが鳴ったら、会場のスタッフがやることになっている。
「忘れたか、自分で生み出しておきながら」
目の前に現れたのは、背の高い老人だった。長い衣をまとった、髭の長い老人である。その手には火の入ったランタンがあるのに、辺りは全然明るくない。
そもそも、調光室の天井は低いのだ。この老人の頭がつっかえないわけがない。
「ここは……どこだ?」
老人が呆れたように答えた。
「ワシが誰かと尋ねるのが先ではないか?」
「すでに知っていることを答えることもない」
間髪入れずに言い返すのも、シェイクスピアとしては当然だ。ましてや、相手が自分の創造物となれば。
かつて『十二夜』で登場させた「時」の老人は、ふてくされたように言った。
「やれやれ、思い切り見栄を切ってやろうと思っておったのに」
「で、ここはどこだ? お前が頭をぶつけないでも済むこの場所は?」
皮肉たっぷりに聞いてやると、老人は鼻で笑った。
「そんな口を利いてもいいのか? ここはワシの場所だぞ」
「そのお前は私の創造物だと、自分で言ったではないか」
切り返してやったが、老人も負けてはいない。
「だから、ここを支配する力も与えられておる。創造した本人にな」
「で、どこだ?」
負けを認めるしかなかったが、卑屈になる理由はない。老人も、根負けしたように答えた。
「どこでもない。始まりの前、終わりの後だ」
「それはまさに、舞台そのものではないか」
そう言うと、老人は楽しげに笑った。
「そう来るか! なるほど、そうかもしれん……だが」
真面目な顔で、まっすぐに見据えてくる。
「そこは、夢ともいうのだ」
「同じことだ、現実ではないのだから」
まるで劇中の道化のような問答だ、と沙……いや、シェイクスピアは思った。だが、老人はすこぶる真剣である。
「だが、夢の中に生きる者には、現実ともいえよう」
「どういうことだ?」
自分でもわけが分からなくなってくる。老人はそれを察したのだろう、水から答えを告げた。
「現実には死んだのに、もう一度と望むのは、夢を見たいということだ。その望みを叶えてやったのだから、夢の国の住人になったということだろう。してみれば、その夢ではないこの場所は、現実ということになる」
「つまり、私は死ぬということか?」
老人は頷いた。
人生とは、間の悪いものである。いや、間の悪いのが人生というべきか。
シェイクスピアは掌を返したように、「時」の老人に
「少しでいい、時間をくれないだろうか」
「もうやったろう」
すげなく言い切る老人に、なりふり構わず取りすがる。
まるで『十二夜』で描いた嫌味な男、最後の最後で袋叩きにされるマルヴォーリオのように。
「私だけの問題ではないのだ、これは。私を待っている人たちがいる」
「誰を待っていると?」
老人は意地悪く聞き返す。
「私だ!」
「だから誰だ? ウィリアム・シェイクスピアか?」
日本で沙翁と呼ばれる男は一瞬だけ答えに詰まったが、はっきりと答えた。
「いや、
それはまさに、半年ばかり演じてきた沙の口調だったが、「時」の老人は含み笑いで応じるばかりだった。
「まあ、見ているがいい」
その一言で、沙は調光室の椅子の上に崩れる自分を感じていた。
2ベルが鳴り、開演がアナウンスされる。
「これより、
土壇場で倒れた沙を、顧問の姿を取った「時」の老人は冷ややかに見下ろしている……。
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