第33話 そして白馬の使者はやってくる
地区大会の会場は、静まり返っていた。昼間の喧噪が夢か幻のようである。
五十鈴は、その会場に頭を下げたかったが、いかに人もまばらとはいえ、自動ドアの外には高校生たちがたむろしている。
大会が、終わったのだ。
上演を楽しんだ観客は、とっくの昔に帰っている。さっきホールを追い出されたのは、年に1度の勝負が決まる(建前上は、そんなことはないらしいが)瞬間に臨んだ演劇部員たちだ。
審査発表も閉会式も終わった。静かな気持ちで、運営スタッフの全体ミーティングも終えることができた。
自動ドアを出ると、夕闇に街灯の光がぼんやりと滲んでいる。子供の頃、夏になると楽しみにしていた縁日のように。
高2の夏は、久々に楽しめそうだ。去年までは、地区大会が終わるとすぐ、文化祭の準備に入っていたから。
陵高校演劇部の仲間たちが待っている。
「遅いぞ、五十鈴!」
並木に呼ばれて、ムッとした顔で駆け寄る。
「私にだっていろいろあるの!」
嘘だ。出るに出られなかったのだ。
できれば、隠れん坊の鬼にされたまま、会場に置き去りにされてもよかったのだが。
並木の隣にいる沙には見透かされているような気がする。どんな顔をしているか、ちらりと見てみると、何やらぺこりと頭を下げた。
何かが、違う。
それがどのようなものか考える間もなく、並木の仕切りで地区大会の反省会が始まった。
「ええと、残念ながら、県大会には行けませんでした」
そう、結果は落選だった。
陵高校の『ハムレット』は、イリュージョンを破壊して観客に現実をつきつける手法に挑んだことは審査員から高く評価された。
だが、他の高校のレベルはあまりにも高すぎた。
蒲生野高校の『シラノ・ド・ベルジュラック』は堂々の1位。あの100人斬りの立ち回りは圧巻だったし、沙がソバ食う前に再現してみせたアラスの野にクリスチャン救出に向かうシーンは、審査員に絶賛された。
続く照星高校の『オイディプス』は、舞台装置を限界まで削った抽象舞台が、幻想性と悲劇性を極限まで引きたてたと評価された。
『人形の家』は、テーマとなっている女性の人権を明確に、徹底したリアリズムで描き出したことが認められた。『三年寝太郎』も五十鈴の読みどおり、現代の問題を民話劇で描いたことで審査員に注目された。
因みに、『女の平和』は惜しくも落選した。やはり、クライマックスで男の下半身を強調したのがマズかったらしい。
輪の外から、言い訳がましい声がぼそりと聞こえた。
「新たなことをしようと努力すれば、結果に裏切られるものだよ」
元はといえば顧問のせいなのだが、シラっとした空気を収めようとするかのように、部長はちょっと気負って宣言する。
「これで、僕たちの夏は終わりです」
悔しい結果に終わったはずなのに、その表情は夕闇の中にも爽やかだった。負け惜しみでも何でもない。
誰からともなく、一斉にねぎらいの声が上がる。
「お疲れ様でした!」
一礼した員たちは皆、晴れやかな顔をしている。見るからに、「やり切った」という満足感でいっぱいだった。
だが、そう感じると余計に五十鈴は、いたたまれない思いがした。
自分には、ここにいる資格がない。
いつしか部員たちが形作っていた輪の外に、夕闇に溶ける背の高い影が見える。これがゲーテの『ファウスト』なら、五十鈴が主役で顧問がメフィストフェレスというわけだ。
賭けに負けた今、ツケを払わなければならない。
だが、並木はもちろん、そんな都合など知るわけがない。
「え~、それでは挨拶! 佐伯幸恵さん」
「あ~と、え~と……何て言ったら、いいのかなあ……」
相変わらず、ほにゃあとした声で挨拶が始まる。だが、聞いている余裕はない。
知らないうちに、挨拶の順番が移っている。
「笠置!」
「名前まで呼べよ」
勝手に辞めたはずの笠置誠が、すっぱりと頭を下げる。
「迷惑かけた! すまん!」
気まずい空気になるのを心配したが、部員一同のリアクションは温いものだった。
「いやいやいやいや……」
部員が揃って顔の前で手を振る。
五十鈴としても、沙と部と上演の危機を救ったことで、全部チャラになったと思っている。
だが、そこで笠置は身体を起こすと、きっぱり言い切った。
「でも、部員じゃないから言わせてもらう」
緩んだ空気が一気に張り詰める。並木の顔も強張った。
ここが、最後の出番なのだろう。
五十鈴は思い切って口を開いた。
「笠置! その辺で……」
もちろん、止めて聞く相手ではない。小柄な身体で、いつもの尊大な態度で、言いたいことを言いたいように言う。
ただし、この輪の中にしか届かない囁き声で。
「沙……僕とつきあってほしい」
告白された本人は、目を真ん丸に見開いて唖然としている。あまりのことに、五十鈴にも言葉がない。
肝心の沙はというと、これまでとは打って変わったしおらしさで、おずおずと答える。
「返事……今でなくていいですか?」
普通ならここで冷やかしの声の一つも上がるところだとは思ったが、そこは「部内恋愛禁止」の演劇部、誰ひとり、どう応じていいか分からない様子だった。
さらに並木に至っては、石にでもなったかのように固まっている。
こうなった以上、ケリをつけなければならない問題があるはずなのだが……。
もっとも五十鈴自身は、もうどうこういう立場ではなくなるが。
だが、立場上、先を越されても何も言えないはずの並木が、誰よりも早く立ち直った。
「ええと、じゃあ、ここで人事異動の発令を……」
何もかも、なかったことにする気らしい。相模か誰かを部長に指名して、お茶を濁すつもりなのだろう。
その読みは、半分だけ当たっていた。
「菅野五十鈴さん、次回から部長をお願いします!」
部員一同の拍手で、笠置の告白は完全にスルーされた。それはそれでいいのだが、五十鈴としては固辞するしかない。
「ちょっと……それ、困ります」
ぽかんとしている並木と、目を合わせることができない。沙はというと、笠置に告白されたせいもあってか、明後日の方向を向いている。
その笠置が、五十鈴を見据えて言った。
「他に誰ができるっていうんだ」
一同の視線が、期待を込めて向けられる。
以前の自分なら断らなかっただろう。むしろ、自ら名乗りを上げたかもしれない。
だが、顧問と取引してしまった自分に、その資格はない。
五十鈴はこの場から逃げ出したいのをこらえて、頭を下げた。
「ごめん! ずっと隠してた。全部私が悪いの。どうしても稽古始めたかったから、こんな無理させて……」
自分でも、何を言っているのかよく分からない。うろたえる部員たちがきょろきょろそわそわする中、顧問の声までが上ずっていた。
「ああ、その話か……」
言葉を返されたせいで、話がかえってややこしくなった感がある。並木は顧問と五十鈴をかわるがわる眺めて、低姿勢で尋ねてくる。
「もう少し、詳しく……」
五十鈴は精一杯の息を吸い込んで、自らの罪を一気に告白した。
「全員キャストで、地区大会突破するっていうのが、条件だったの、稽古始める……」
この件では圧倒的優位に立っているはずの顧問が、みっともなく慌てていた。
「だから、その話は……」
事情がやっと呑み込めたのか、2年生がざわざわと騒ぎ出した。
はっきりと声を上げたのは美浪である。
「ちょっと、じゃあ、秋は? 今年の文化祭は?」
五十鈴が心配していたのも、そこだった。
地区大会に落選したのだから、部活が再びできなくなるのを心配するのは当然のことだ。
だが、そこで再び邪魔が入った。
沙である。
「そういえば、私、先生に何か言ったような?」
唐突と言えば唐突な、そして間の抜けた返事だった。
「ああ、確か、そうだったな」
顧問は顧問ですっとぼけた返事をする。間というものはおそろしいもので、一大決心をしても、調子が狂えば木っ端みじんにされてしまう。
五十鈴もまた、その先が続かなくなった。
「あの……それで……」
自分が辞めて責任を取ると言おうにも、顧問に聞く気がないのではどうにもならない。
その顧問はというと、五十鈴の話が終わらないうちに、強引にオチを作ってしまった。
「はいはい、なし、その話は、なし!」
「え……?」
この、ひと月ちょっとの内心の葛藤を無にする一言に、五十鈴の目の前で夕闇がかき消えて、視界は真っ白になった。
まるで、新歓公演で上演した『三文オペラ』のようなオチである。
五十鈴だけではない。部員全員が、唖然としている。
たぶん誰もが同じ気持ちなのだろうと思うと、どっと力が抜けていく中で、奇妙な安心感が代わりに全身を満たしていくのが感じられた。
そして、数日後。
以前に『ゴドーを待ちながら』を観た視聴覚教室で反省会が行われた。
だが、上演された舞台のビデオを持ってきたのは、生徒会担当の教員だった。
並木が怪訝そうに尋ねた。
「先生は?」
「退職された」
素っ気なく答えた教員は、DVDプレーヤーにディスクを入れた。
「ずいぶん無理をされてたみたいだね。ずっと健康を害されていたらしい。君たちが部活を終わるまでずっと椅子に座っていらして、部室が閉まるとすぐ、帰られていたみたいだよ」
だから、部活にも来なかったのだ。その上、稽古もさせず、部室も閉めたのも、そのためだったのだろうと察しがついた。
比嘉が溜息をついた。
「これが教員の長時間労働か……」
苗木がこれに応じる。
「合法ブラック企業だっていうもんな、学校は……」
そこで美浪がたしなめた。
「それ以上言うな、悪者にされるだろ、演劇部が!」
五十鈴は、このざわめきを部長として制止する。
「そこまで! この話題は今後タブー!」
部屋中が静まり返ると、前全部長の並木も、引退したホレイショー役の佐伯幸恵も満足げにニヤニヤ笑っていた。
五十鈴も、満面の笑顔を浮かべてみせる。
「練習時間、削られちゃうでしょ? ね、先生?」
DVDを再生した生徒会担当が、苦しそうに咳き込んだ。
暗幕が閉まって、素舞台の『ハムレット』がスクリーンに蘇る。
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