第22話 演出がぶち上げる新たなプラン
沙が体育館の外へ出ると、2つの校舎をつなぐ渡り廊下を行ったり来たりしている、イスズの姿はすぐに見つかった。
だが、なかなか捕まえることはできなかった。後者は4階建てで、渡り廊下は2階と3階にある。だが、沙が2階に行っても3階に行っても、イスズに会うことはできなかった。
それでいて、1階に下りて辺りを見渡してみると、イスズはまだ渡り廊下の上にいる。
早い話が、沙が2階に行けば3階に上がり、3階に上がれば2階に下りていただけでのことである。
誰もいない3階で、沙は渡り廊下のフェンスから、下に向かって呼びかけた。
「センパイ、そこ動かないでください、時間のムダなんで!」
「一言多いのよ、あなたは!」
返事があった辺りに下りていってみると、イスズはフェンスから身を乗り出していた。今にも飛び降りそうに見える。
「ちょっと、やめてください!」
慌てて飛びつくと、イスズは暴れた。
「離してよ!」
腕を振りほどこうとする力は意外に強い。
いや、沙の身体が、イスズを抑えるには小さすぎるのだ。これでは、52歳の男の腕力は出せない。
取りすがるのが精一杯だった。
「早まらないでください!」
「その手、離しなさいよ!」
金切り声が上がるが、沙としても聞くわけにはいかない。
「離しません!」
余計に力を込めると、柔らかい感触と共に悲鳴が上がった。
「変態!」
「え……?」
気が付いてみると、背中から回した手がイスズの豊かな胸を鷲掴みにしている。心ならずも働いた女性への狼藉にさすがに取り乱したが、そこはシェイクスピアとしての理性が働いた。
「ああ、これは失礼失礼」
一歩退いて、何事もなかったかのようにその場を取り繕う。踵を揃えて背筋を伸ばし、礼儀正しさと冷静さを装ってみせる。
「ふざけてんの?」
イスズはまだ怒りが収まらないのか、ついと背中を向けて、再びフェンスにもたれた。
沙は自分が女性の姿をしていることを思い出し、とっさにその隣に並んだ。
「はい、ふざけてます」
イスズはそれ以上、何も言わなかった。同じ姿勢で開き直られて、責める言葉もなくなったらしい。
人間というのはそういうものだと、沙は17世紀のイギリスで学び知っていた。
フェンスからは、なんとか顔を出すことができた。イスズが眺めているものを共に見ようとする。
「何見てるんですか?」
「あれ」
イスズが指差す先では、サガミと1年生の舞台装置スタッフがグラウンドのトラックを走っている。
「暑くないんですかね」
「暑いに決まってるじゃない」
そこでイスズは、深いため息をついた。
「らしくありませんね、センパイ」
素直な感想がつい、口を突いて出た。余計なことを言ったかと思ったが、これはすんなりと通った。
「私はいつもこんなもんよ」
イスズの力ないつぶやきを、沙は好ましく感じた。
「全員キャストって、面白いと思いますよ」
「ありがとう」
社交辞令にも聞こえる返事だったが、沙は別にお愛想を言ったわけではない。
調理学校の「シラノ」を見たときは、心が熱くなった。500年前にやりたかったのは、これなのだ。
本当はこの世のどこにもない、理屈抜きの愛と正義。
それを、舞台の上で100人斬りなどいうメチャクチャを通して、臆面もなくやってみせてくれたのだ。
かつて、「成り上がりのカラス」と呼ばれた自分がそうだったように。
「シェイクスピア以前の劇って、どんなんだったか知ってますか?」
尋ねてみると、期待通りの答えが返ってきた。
「1つの事件が1つの場所で、一昼夜以内に解決する……いわゆる三一の法則」
「それを敢えて破って書きたいもの書いたシェイクスピアって、すごいと思うんです」
他人事のように言ってみせるが、実際、自分で凄いと思っているのだから照れることもない。
だが、イスズはそうでもなかった。
「そんな勇気もないんだなあ、私は」
そう言いながら見つめているのは、グラウンドの真ん中でヘバってしまった、舞台装置スタッフである。
「あいつら納得させられなかったんだもん」
「シェイクスピアだってそうだったんですよ、きっと」
実際、稽古場は
だが、そんなことをイスズが知っているはずもない。
「見てきたような気休め言わないで」
せっかく外した急所を突いてしまったらしい。さすがに言葉を失った沙に、イスズはまくしたてた。
「調子乗り過ぎじゃないの、あなた? 稽古中に制服着てるし、その割には部室で脱いじゃったりして、そりゃ、そこでオタオタしてた男子連中も、それ勘違いしてぶちのめした私たち女子も悪いんだけど、ちょっとは部員の自覚持ってよ。だいたい慎吾も甘いのよ、体操服でいいからちゃんと着替えろって言えばいいのに何か照れちゃって……」
そこで口ごもったのは、思わぬところで思わぬ名前を口にしてしまったからだろう。
沙は肩をすくめて囁く。
「
「別に、慎吾の……部長の……並木のことなんか」
しどろもどろのイスズに、沙はここぞとばかりに言い放った。
「部内恋愛禁止」
しばしの沈黙の後、イスズは何事もなかったかのようにグラウンドへ向かって叫んだ。
「サガミ! 舞台監督! 話があるの!」
グラウンドに寝転がった背の高い男子生徒が立ち上がって手を振った。
「降りてこい!」
叫び返すのを、また大声で突っぱねる。
「暑いから嫌!」
「しょうがねえな!」
歩き出すサガミにぞろぞろ付き従う男子生徒たちを見下ろしながら、イスズはくすっと笑った。
「そうだったのかもしれない、シェイクスピアも……そんな気がして、ね」
「でしょう?」
たとえ理屈で打ち消しても、言葉はイメージを醸し出さずにはいない。その言葉の力を、沙は自分の手がけた戯曲で、よく知っていた。
「それが、観客と共有する
イスズを連れ戻した沙だけでなく、サガミたちを連れて戻ったイスズもまた、ステージでの歓迎を受けた。そこで深々と頭を下げたイスズが開口一番、全員を座らせて垂れた講釈の締めくくりが、これである。
役者の言葉と身体を通して生まれたイメージを、観客と共にすること。そのために取る方法が、部員全員をキャストとして舞台を埋め尽くすことだった。
「シーボルト学園で見たのは、これだったの。舞台にいる役者の存在感が、私たちの心の中のイメージを呼び起こしていたのよ」
だが、イスズと分かり合えたかに見えたサガミはまだ、納得していなかった。
「じゃあ、衣装とか装置は意味がないのか?」
「本物じゃないっていう点で、意味があるわ」
間髪入れずに切り返されて、背の高い舞台監督は目を白黒させる。
そこで、沙は立ち上がって、部員全員を見渡して告げた。
「本物じゃないから、信じる意味があるの」
おおっ、と歓声が上がったが、説得力があったからだとは思っていない。さらに言葉を継ぐ。
「本物だったら、信じなくていいじゃない」
そのくらいは言う必要があった。
比嘉と苗木が、美波に頭を小突かれている。学校指定の半袖と短い下履きから晒した手足に見とれていたらしい。
だが、サガミは気を取り直したように食い下がった。
「でも、全部、部室にあるから使えない……開けてもらえるまで」
それに答えを出したのは、演出のイスズだった。
「だから、装置は使わないの。必要最小限の小道具と衣装でイリュージョンを作る」
「それじゃイリュージョンぶち壊しだよ」
サガミの反論に、全員が唸った。それは、沙から見ても一理あった。女子高生生としての生活を送ってみて、存外に忙しいことは身体で分かっている。
そこでナミキが、いちばん肝心なことを確認した。
「納得できなきゃ、キャストやらないっていうことか?」
ステージの上が静まり返る。バスケ部員の喚声と、ボールの音だけが響き渡った。
サガミは舞台装置担当全員と目を合わせてから、おもむろに答えた。
「やるからには、納得したい」
ステージ上の歓声が、体育館を満たした。バスケ部員やバドミントン部員が練習の手を止めて、演劇部員たちに視線を向ける。
イスズだけが唸り続けていた。だが、演出は決して迷ってはいけない。沙は『ハムレット』の作者としてひとつの演出プランを持っていたが、それを口にするわけにはいかなかった。
立ち上げてみせるのは、イスズの仕事だ。
代わりに口ずさんだのは、『十二夜』のクライマックスにある道化の歌だった。
その意味は、イスズにだけは伝わったらしい。
「じゃあ、ぶち壊しましょう」
「え……?」
部員一同が、並木までもが呆気にとられて目を見張った。イスズは暑いステージの上ながら、涼しい顔で言い放った。
「ぶち壊せるってことは、いったん生まれてるわけでしょ? イリュージョンは」
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