第23話 プラマイゼロの幸と不幸
五十鈴にしても、難解なプランだということは分かっていた。
並木も、稽古のたびに心配そうに尋ねてくる。
「こんなんで……いいのか?」
その度に、五十鈴は断言するしかない。
「これでいいの」
気に食わないのは、その度に並木が傍らの沙を見下ろすことだ。沙はというと、無言で満面の笑顔を返す。それはまるで、恋人同士のように見えた。
「部内恋愛禁止だからね」
これで何度目かというくらいに釘を刺すと、沙は五十鈴に真剣なまなざしを向けるのだった。
彼女だけには、この演出プランの意味することが伝わっているようだった。
今日も五十鈴のダメ出しが飛ぶが、沙だけは嬉々としてついてくる。
「そこ! 波になるの遅い!」
「はい!」
デンマーク領内を行進するノルウェー王フォーティンブラスが、国を追われたハムレットと遭遇するシーンの後だった。
「そこ、もう1回!」
フォーティンブラスが去っても、行進は止まらない。歩行のパントマイムが延々と続いている。
ハムレット役の和泉はローゼンクランツとギルデンスターンを先にやり、復讐を決断できなかった自分とノルウェー王を引き比べて、己を鼓舞する。
《我が思いは血で染めてこそ、そうでなければ、何にも値しない》
そこには逞しい身体を持つハムレットがいた。だが、それでは納得できない五十鈴は手を叩いて芝居を止めた。
「OK! イメージ、十分伝わったわ、そのセリフで。あとは、別の芝居を工夫しながら演じてみて」
和泉の演技で、デンマークの平原は消えてなくなる。残ったのは、舞台上で起こっている出来事だけだ。
五十鈴は手を叩いた。
「OK! こうすれば面白かったね、新歓でも」
和泉が怪訝な顔をする。ブレヒト『三文オペラ』では、町を騒がせる悪党「短剣のマキス」を演じていたのだ。
「あなたを退治するために、みんな頑張ったでしょ?」
「俺じゃなくてマキス」
苦笑いする和泉に、やーい悪党と野次が飛ぶ。それをたしなめるように、五十鈴は説明した。
「その努力も連帯も、王様の恩赦で全てムダになった」
恩赦を告げる白馬の使者を演じた美浪が、ガッツポーズを取ってみせる。五十鈴も同じポーズを返して、本題に入った。
「新歓では観客みんな唖然としてたけど、あれはイリュージョンが消えて劇が終わったから」
そこで、比嘉と苗木がおずおずと手を挙げる。美浪が頷いてみせると、どちらともなく
「つまり?」
「最初からイリュージョンを消しておけば?」
イスズは2人の質問に一言で答えた。
「世の中これでいいのかっていうテーマについて、観客はずっと考えたはずよ」
実を言うと、他に、この状況を正当化する方法はなかった。
部室は使えない。中にあるものも使えない。それなのに、大会は迫ってくる。
特に中間考査での惨敗の記憶が新しい今年度は、期末考査を前にして日程が詰まっていた。
スタッフからの転向組の稽古が熾烈を極めるのも仕方がない。
「はい! じゃあ、行進が波になるシーンから!」
手を叩くと、パントマイムの歩行は一瞬にして、全身を浮き沈みさせる波のマイムに変わる。
だが、稽古が進む間にも着々と進行していたことがあった。
並木が毎回、部員に呼びかけていることがある。
「はい、じゃあ、保護者のハンコもらってきたね!」
始まりと終わりに確認すると、ぽつ、ぽつと提出されるものがある。
ソバアレルギーに関する調査だった。
五十鈴は露骨に眉をひそめる。
「また大袈裟な……」
「しょうがないだろ、顧問が気にしてるんだから」
蒲生原高校の顧問からソバを振る舞うという連絡が入って、顧問は慌てた。並木を呼びつけて、勝手な約束をするなとの小言付きで、保護者に対するアレルギー調査の用紙を部員に配らせたのだ。
一同うんざりしているが、何故か沙だけは、初めてソバを口にするかのようにはしゃいでいる。
それも含めて、試験前の部活動停止期間までには、全ての準備が完了していた。
沙などはもう、調子に乗っている。
「ここまで来たら、部室開けてくれって言ってもいいんじゃないですか?」
五十鈴はドキっとしながらも、冷たく切り返す。
「ダメ」
稽古再開の取引で、顧問の度量のコップはいっぱいになっているはずだった。
試験前には、最初の通し稽古に入ることができた。
「はい、波のシーンから!」
五十鈴が手を叩いて沙たちを波に変えると、舞台上は洋上の甲板となる。原作では描かれない、海賊との戦いが始まるのだ。
とりあえず、硬く巻いた新聞紙でチャンバラをやることになっている。なぜなら、ハムレットがそれを開けば、クローディアスからイングランド王に当てた手紙を発見することになるからだ。
「はい! エルシノア城!」
波が直立すると、その柱の間をクローディアスとレイアーティーズが歩き回って、ハムレット暗殺の密談を交わす。
そこへ伝えられるのは、オフィーリアの入水自殺である。
「はい! 墓地!」
柱たちは思い思いの姿勢でその場に座り、墓石となる。
その前を墓掘りとハムレットが行ったり来たりしているうちに、オフィーリアの葬儀が執り行われる。そこで復讐に燃えるレイアーティーズとの諍いが始まるが、いったんは引き分けられる。
「はい! 再びエルシノア城!」
墓石が再び立ち上がって柱となれば、そこはハムレットとホレイショーの密談の場である。
狂気を装ってきたハムレットは、親友に胸の内を語って決闘に臨む。
「はい! 決闘の間!」
柱は観客となって歓声を上げ、ハムレットとレイアーティーズの死闘が始まる。
錯誤と陰謀の果てに主要人物が全て死ぬと、観客たちは何事もなかったかのようにフォーティンブラスを迎える。
「はい、幕が下ります。1、2、3、4……」
大会の会場では、緞帳が完全に降りるまで14秒かかることになっている。
それを見届けたところで、並木はふと尋ねた。
「あれ? 沙は?」
通し稽古が終わるまで、確かに舞台にいたはずである。
「しまった……」
五十鈴が真っ先に考えた行き先があった。
ダメ出しは後で、と10分間の休憩を入れて、ステージから駆け出す。並木も後を追ってきた。
「どこ行くんだよ」
「職員室。顧問のとこ」
沙がこっそり動くとなれば、場所はそこしかなかった。
「何で?」
「直談判するって言ってた、沙」
職員室に駆け込もうとした五十鈴を、並木が止めた。
「何の?」
事情も知らないで踏み込むのを避けたかったのだろうが、答える必要はなかった。職員室の中から、沙の声が聞こえる。
「もう、いいんじゃありませんか? 部室開けてくれても」
五十鈴は呻いた。
「遅かった……」
「何が?」
そう言いながら職員室に入ろうとする並木を、今度は五十鈴が止めた。
「いや、ここはちょっと……」
「助けないと」
それはできなかった。五十鈴には、顧問との密約がある。
稽古を再開する代わりに、全員キャストで地区大会を突破するという、部員達には内緒の取引が。
これ以上の要求をすれば、並木と沙の前で密約を持ち出されかねない。
「……いや、もうちょっと様子見てからの方が、顧問怒らせないかな、なんて」
苦しい言い訳だった。並木は五十鈴の言葉を口の中で何度も繰り返していたが、やがてつぶやいた。
「そんなら、まあ……」
長い議論の末、顧問は結論を保留したようだった。職員室から出てきた沙は、2人の3年生に気付いて、顔を背けた。
「あの……えっと」
言い訳する間も与えず、並木が低い声で叱った。
「何で黙ってた」
「止められると思ったから……」
並木の顔が、怒りで一瞬だけ歪む。だが、口から出た言葉は穏やかだった。
「ひとりで背負うな」
そう言う並木の隣で、五十鈴は大きな隠し事をしている。いたたまれなかった。だが、こんな大きな問題を前に、ここを離れるわけにはいかない。
代わりに、沙が冷ややかに答えた。
「じゃあ、先輩たち、何やったんですか? 顧問動かすために」
並木は押し黙った。口を真一文字に結んだその顔を見ながら、五十鈴も何一つ答えることができなかった。
沙は、体操服の背中を向けて廊下を歩いていく。
「今日はもう、帰ります。明日から試験期間ですんで」
その姿が曲がり角に消えるのと並木と共に見送っていた五十鈴は、廊下をまっすぐに駆け出した。
「おい、五十鈴!」
並木に呼び止められて、足が止まった。逃げるわけにはいかない。
少なくとも、今日だけは。
「そうですよね、そっとしといたほうがいいですよね」
「落ち着けよ」
追い越していく並木の背中を見ながら、五十鈴はとぼとぼと歩きだした。
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