オセロー開眼

何もなくなってしまった空間

第11話 苦難の始まり

 まる1日経って、イサゴにも、この一座が小屋を失ったことは何となく呑み込めてきた。

 昨日、舞台監督ステージ・マネージャーが舞台に駆け込んで来てからはもう、稽古どころではなかった。

 座員一同が学校の職員室スタッフ・ルームに押し掛けたが、顧問パトロンは既に早退していた。事情を知らない教員が杓子定規な対応で、部室から私物を運び出させたものである。

 女子部員の中には声を上げて泣く者もあり、サライなどは逆上して暴れ出しそうになったが、意外にもヒガとナエキが真面目な顔でなだめた。

 座長のナミキが言った。

「ステージが使えないわけじゃない。芝居をしちゃいけないわけじゃない」

 時間通りの稽古場集合を告げられて、座員は各々の思いを顔に出したり胸に秘めたりして、無言で解散したのだった。

 

 その日の集合は、誰もが遅かった。

 なんだかんだで稽古着が未だ準備できないまま、沙が制服姿のままでステージの上で待っていると、どこかで着替えたらしいナミキがやってきた。

「やっぱりな」

 いつもは全員、決まった時間に集合しているせいか、どうにも妙な雰囲気ムードだった。

 空気そのものが緩んで、身体に絡みついてくるようだ。全身から、どっと力が抜けていく。

「こりゃ、立て直しがたいへんだぞ」

 ナミキはぴょんぴょん飛んだり跳ねたりしておどけた。だが、沙にはその息の苦しさが肌で感じられた。

 500年前も、同じようなことはしょっちゅうだった。

 後に国王ジェームズ1世がパトロンとなった宮廷劇団はともかく、若い頃、宿屋の庭を回って芝居をやっていたころは、ステージの下も向こうもガラガラなどということは珍しくなかった。

 そんなときの役者たちは、こんな顔をしていたものだ。

 

 沙がシェイクスピアとしての若き日の思い出に浸っていると、ナミキがいきなり語りかけた。

「どうする?」

 そう言いながらステージに座り込んで、身体を二つに折る。全身を柔らかくするものらしい。

「どうするって?」

 ナミキの言いたいことを量りかねて、同じ言葉を繰り返す。しばらく手足を曲げ伸ばししていたナミキは、言いにくそうに答えた。

「無理に……続けなくてもいいんだよ?」

「見える? 無理してるように」

 ひっきりなしに動いていた身体が、ぴたりと止まった。沙を、じっと見つめ返してくる。

「……何?」

 まなざしの真剣さに、思わず後ずさる。49歳の男が18歳そこそこの少年に怯えたわけではない。恐怖とは違う何かが、背中を走ったのだ。

「……見えない」

 ナミキが再び無言で身体を動かしはじめたので、何とか借り物の胸を撫でおろしはした。だが、今度は芝居にも欠かせない「間」が持たない。

 転生して間もない沙に、そうそう芝居以外の話題があろうはずもなかった。自然と、話はこの一座のことになる。


「難しい人でね」

 ステージに座り込んだナミキが顧問スポンサーについて語り始めたのは、時間通りには部活を始められないと腹を括ったからだろう。

 ステージの前には網が張られ、いつもとは違う球技が始まっていた。

「ハンドボールだ、ちょっと下がって」

手の中の球ハンドボール?」

 問い返す間もなく、網の向こうにまた、網の張られた鉄の箱が置かれた。確かに、手の中にどうにか収まるくらいのボールを床で弾ませて、少年が駆けてくる。

「危ない!」

 ナミキは急に立ち上がると、沙の肩を掴んだ。

「ひゃっ!」

 背中に寒いものが走ったと思ったところで、ナミキが頭を抑えてステージにひっくり返った。

 網の向こうで、ボールが床に転がる。それを投げたらしい少年が、スミマセンと謝った。

 どうやら、あの網の箱に投げ込み損なったものらしい。

「天罰ね」

 別の声が聞こえて振り向くと、そこには着替えたイスズが木綿のシャツの豊かな膨らみをそらして立っていた。  

「こんなときに1年生口説いてるから」

「俺がそんな男に見えるか?」

 ステージでごろりと転がったナミキが身体を起こすと、イスズは見下ろす姿勢で尋ねた。

「冗談よ……でも、この分だと失敗だったみたいね」

 がらんとしたステージを見渡す。ナミキもその視線を追いながら、力無く答えた。

「ああ……いつも通り頑固でな」

 沙には、誰のことだか分からない。それを察したのか、イスズが冷ややかな眼差しを向けながら答えた。

「うちのコモンよ……だから、無理しなくていいわ」

 ナミキと同じことを言われると、さすがに部外者扱いされたようで面白くない。それまで別に興味もなかったことを、沙は尋ねないではいられなかった。

「何者? その、コモンって」

 

 ナミキの話を総合すると、コモンとはパトロンのようなものでもあるが、えんっ出でもあり舞台監督でもある、何だかよく分からない立場のようであった。

 この一座に関しては、シェイクスピアとしての沙が知る限りではジェームズ1世のような地位にあるらしい。

「あんまり、僕たちが稽古するの好きじゃないみたいでさ」

 何かというと理屈をつけて部活を休みにしては帰ってしまうという。

「勝手にやれば?」

 素朴な疑問をぶつけると、イスズが苛立たし気に答えた。

「そんなことができればとっくにやってる……顧問の許可なく稽古やったら、上演もできなくなるの!」

「何で?」

 沙はまだ釈然としない。ナミキが力なく答えた。

「ここが学校で、僕らがやってるのは部活だから」

 つまり、学校ではパトロンの許しがないと一座は芝居が打てないということだ。「じゃあ、ブカツでなければいいんじゃ?」 

 その問いには、イスズがきっぱりと答えた。

「学校の外じゃ、芝居打つ金も場所もないの」

 500年前にシェイクスピアとして、グローブ座で経営の一端を担っていた沙には、それは至極納得のいくことだった。


「で、コモン何だって?」

 イスズの詰問に、ナミキは力ない声で、これも言いにくそうに答えた。

ブシツ部室の使い方がよくないって」

「ちゃんと片づけてるじゃない。どこが?」

 なおも問い詰めるイスズから、ナミキは目をそらしている。狙いの外れたハンドボールが鼻先まで網を押し込んできたが、身動きひとつしなかった。

 いや、できなかったというべきだろう。視線が泳いでいた。イスズの追及は続く。

「何がいけなかったっていうの?」

 その勢いには、ナミキもたじろいだ。しばし口ごもっていたが、答えないではこの場が済まないと判断したようだった。

「こないだのアレ」

「アレ……?」

 小首を傾げたイスズだったが、すぐにハッと口を開けた。

「アレか……」

「乱闘騒ぎ」

 じろりと見上げる眼差しは、沙の目にも恨みがましく見えた。確か、あのとき、イスズに腕を極められて悲鳴を上げていたのはナミキだったはずだ。

「だってあれは……」

 そう言うイスズの言葉が続かなかったのは、やましさがあるからだろう。その隙を突くように、ナミキがそのときの非難を蒸し返した。

「誤解だって言ったろ」

 そのときは気にもしなかったが、半裸の沙を、やはり半裸の男子生徒が取り囲んでいては通らない理屈とも思えた。だが、どうやら一座の管理者には看過できない問題だったようである。

 それでもイスズは食い下がった。

「でも、怪我もなかったし、何も壊れてないし」

「目撃者多数……面倒ごとが嫌いだからな、あのコモンは」

 ナミキのため息を最後まで聞かないで、沙は立ち上がった。

 元はといえば、今は少女の身体であることを忘れていた自分に非がある。向かう先は1つしかない。

 職員室スタッフ・ルームに駆けていって尋ねると、コモンは席を外していた。行き先を聞いて、慌てて学校の玄関へと追っていくと、下足箱の向こうにあの影が隠れるところだった。

「ええと……センセイ!」

 この時代の、この世代の若者たちの口調をまねて声をかけたが、あのバイオリンに似た、粘りつくような声は一言しか答えなかった。

「決定通り」

 その声を追ってみたが、姿はもう、どこにも見えなかった。

 ただ、沙の目には一瞬だけ、背の高い老人の影を感じていた。

 自分で書いた『十二夜』に登場する、カンテラを下げた「時」の化身にも似た……。

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