第12話 不毛のヴィジョンが舞台に立ち上がる
戻ってきた沙と同時にステージへ現れたのは、きっちり稽古着に着替えた舞台監督だった。
五十鈴はその場にいた部員の中で、真っ先に声をかけた。
「ちょうどよかった、
「ブカン?」
聞き返す沙に、並木が目も合わせずに即答した。
「舞台監督の略」
明後日の方向に向けられた眼差しに、さっきの一言を気にしているのだろうと五十鈴は思った。
ところで、舞台監督については、なかなか名前を思い出せない。いつも舞台装置を作っていて、ステージに出てこないために、そう呼んでいれば済むからだ。
「2年の
いつになくムスッとして、背の高い舞台監督はステージに座り込んだ。何が言いたいかは察しがついたが、五十鈴は敢えて尋ねた。
「で、舞監に確認したいんだけど」
「まだ俺、ブカンなんですか」
憎たらしい皮肉を言う相模に、部長の並木は言い切った。
「上演を中止したわけじゃない」
はいはい、と横柄に返事する態度に苛立ちながらも、五十鈴は努めて落ち着いた声で頼んだ。
「装置のプラン、どうなってる?」
「どうなってた、の間違いでしょ」
部室が使えない以上、舞台装置も外に出せない。これから作るものは、収納できない。相模の言うことも、もっともだった。
それでも、その手には舞台監督用のノートがある。それを開くと、相模はいささか早口で読み上げた。
「上手奥から下手中にかけての平台」
「エルシノア城のシーンね」
五十鈴が確かめると、この『ハムレット』の舞台監督は口惜しそうに頷いた。
「先王の幽霊が、ここ通って
「まあ、こっちが言い出したことだから……」
装置が使えなくなった悔しさはよく分かる。だが、そこまで言わないうちに相模は続けた。
「その向こうに、森とか城壁の
「ノルウェー王フォーティンブラスの行進ね……これがないとオチがつかないの」
ハムレットとレイアーティーズの決闘の後で累々たる屍の山を見届ける、先王の好敵手フォーティンブラスの登場シーンだ。
相模は立ち上がって、ステージを歩き回りながら舞台装置に関する最後の説明を始める。
「上手前から舞台中央にかけては、箱馬で平台を上げておきます」
「クローディアスと妃のガートルードがここに座る」
そうは言っても、どちらもここにはまだ来ていない。
代わりにやってきたのは、ジャージ姿の陽花里だった。
「え~、なにこれ。これだけ? キャストは?」
「待ってあげようよ」
並木が苦笑すると、陽花里はいつものようにほんわかと笑った。
「そうね、じゃあ、照明プラン聞いてくれる?」
だが、その声がどこか張りつめているのを五十鈴は感じていた。
相模も、いきなりその場を仕切りはじめる。
「じゃあ、まず、エルシノア城のシーンから」
五十鈴も、それに乗っかる。
「寒い寒い月明かりの夜。城壁の上に、先王の幽霊が現れます」
絶妙の間で、陽花里がやはりステージ上を歩き回りながら、照明プランを諳んじた。
「
上演中、背景は寒々とした青と青緑に染められている。
舞台全体が青い照明で照らされ、上手から下手へ白色光が当てられる。下手からは青色系の光が舞台の外から斜めに当たり、天井からキャストの顔を照らす白色光は舞台中央にだけ当たる。
相模は更に、シーンごとの照明の確認を続ける。
「クローディアスの居城の中」
「ハムレットが発狂したふりを始めます。昼間に、窓からの光が差しています」
五十鈴の説明に応えるかのように、陽花里がその場を照明用語で描写する。
「地明かりナマ80%、上手FSナマ、下手FSアンバー、CLナマ全体」
すこし暗めにした白色光の中、夕暮れ近い光が斜めに射しこんでくるわけである。
更に次のシーンを、相模が指示する。
「海賊との戦闘」
「空の曇った海。
水平線に見立てた布もまた、部室の中だ。それは、五十鈴にも分かっている。陽花里は陽花里で、いっそう流暢にまくしたてる。
「地明かりナマ80%、CL青、下手ブチガイ
冷たい海の上を、雲を裂いて差し込む朝の太陽の光が照らすイメージだ。
それに触発されたのか、ノートを読み上げる相模も調子よく間を取り始めた。
「夜中の墓掘り」
「しゃれこうべを見て生と死について考えるハムレットの前に、オフィーリアの亡骸を葬るレイアーティーズが現れます」
五十鈴の描く舞台のイメージを、陽花里の照明プランが舞台上に立ち上げる。
「青地に上手ナマブチガイ、
舞台の左右でバランスの著しく崩れた世界で、上手の墓掘りの前に現れたハムレットが、下手から高貴な紫色の光を背負って現れたレイアーティーズと対峙する。
ライバル同士の激突をイメージしてか、相模の声も熱を帯びてきた。
「決闘!」
「城の大広間、でも、男の戦いのイメージで!」
五十鈴の言葉を受けて、陽花里が締めの照明を描写する。
「地明かりに上手FS#22、下手FSアンバー、上手ナマ下手#64ブチガイに観客へ目つぶし!」
不吉さを醸し出す光の中での対決の末に築かれた屍の山。その中に現れたフォーティンブラスが全てを見届けて去るとき、号砲と共に全てが眩しい光の中へ消える。
夢の終わりを迎えて、それまで黙って聞いていた沙がうっとりとため息をついた。
陽花里がその顔をじっと覗き込む。
「意味、分かった?」
「おとといの説明で」
沙の返事を聞いて、五十鈴は内心、舌を巻いた。
確かに照明については、陽花里から一通りのレクチャーがあったはずだ。だが、それを2日かそこらで舞台上のイメージとしてまとめられるとは。
だが、男2人はそれに心を奪われるほど情緒豊かではないようだった。
まず、現実とのギャップに逆上したのは、相模だった。
「これ全部ナシでやれっていうんかい!」
これだけの光も装置もない舞台の殺風景さは、五十鈴としても想像するに余りある。並木もおそらく同じ気持ちであろうが、そこは部長として舞台監督をなだめにかかった。
「そもそもこんなプラン組むからだよ」
確かにその通りだとは思ったが、あまりフォローにはなっていなかった。火に油を注ぐようなものだ。
「シェイクスピアですよ、ハムレットですよ?」
相当な思い入れがあったようだが、並木も冷静に現実を指し示す。
「仕込み時間、20分しかないだろ」
上演前の舞台装置の設営と、照明の準備にはそれだけしかない。プロでも2時間はかかるというのに。
それを規定の時間でやってみせるという意地は、相模にもあるようだった。
「プランぐらい、立ててありましたよ」
対する並木は、やはり部長として言い切るしかない。
「組み直そう」
その提案に、相模はステージの天井を仰いだ。
「そもそも装置なしってのが無理です」
並木は陽花里に向き直る。
「照明がある」
哀しげな笑いが返ってきた。
「装置が前提です」
裏方2人の顔を代わりばんこに見ながら、演劇部の部長として、並木慎吾は力説した。
「それをやんないと」
だが、心の折れた舞台監督、相模賢はステージの上にひっくり返った。
「できません」
灯体をこよなく愛する照明担当、篠原陽花里はぺたりと座り込んだが、微笑みを絶やすことがない。
「することが、なくなりました」
五十鈴の見る限り、イメージと現実との落差に壊れたのだろうと思われた。だが、部長は哀願する。
「陽花里がいないと、舞台真っ暗でしょうが!」
その一言で、説得はムダだろうと思われた。感情でものを言っているときの女子に理屈を言うのは、逆効果である。
案の定、陽花里はやんわりと断った。
「調光室に座ってるだけなんて嫌です」
だが、その眼の前にぺたりと座り込んだのは沙だった。
陽花里の顔をじっと見据える。だが、横になったままの相模と、立っている部長は顔を背けた。
その事情に、五十鈴は察しがついた。アリーナの男子を意識しながら、小声で注意を促す。
「沙ちゃん、スカート、スカートの裾!」
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