第10話 ミキサーゲームと絶対の危機
その次の日。
並木の足元で座り込んだ沙が見つめていたのは、一台のアンプであった。
ステージの上手袖であぐらをかいて、胸の前で腕を組んでいる。
そのスカートの裾をじっと見つめていたクローディアス役の比嘉と、ポローニアス役の苗木が、間に立っていた更井に裏拳と肘打ちを同時に食らって呻いたかと思うと、体育館の裏へと引きずられていった。
沙もまた、呻いていた。
「ううう……」
「無理に今日中にやらんでも」
見かねた並木がなだめても、思いのほか負けず嫌いなようで、制服姿の少女はその場から動きもしない。
「音が出ない」
「出ないね」
腰を屈めてそう繰り返す幼い声は、効果担当の柚木奈々枝である。新入部員に配線とミキサーの操作を教えると言って、舞台上に音響機器を持ち込んだのであった。
沙は額に縦ジワを寄せる。
「
「英語苦手?」
奈々枝の子どものような声には、並木からしても悪気など感じられない。だが、何がカンに触ったのか、沙は向きになった。
「見慣れない言葉なんだって!」
「ひいいいっ!」
尻餅をついて後ずさる奈々枝の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
まあまあ、と並木は止めに入った。だが、不機嫌この上ない沙と、べそをかいている奈々枝の、どちらをなだめたらよいのかはよく分からない。
とりあえずどちらからも目を離さないでいると、沙がしびれを切らしたのか、ミキサーの細かいスイッチに手をかけた。
そのときだった。
奈々枝にも、ある種のスイッチが入ったらしい。
「触るなああああああ!」
小さな体からはとても考えられないような怒号が体育館アリーナを揺るがした。卓球部員とバスケ部員が揃ってステージに目を奪われると、静寂が辺りを支配する。
シュートを外したボールが音を立てて転がり、その弾みで落ちたピンポン玉がかっかっからからからと床で乾いた音を立てた。
並木はしばらく、口が利けなかった。
物怖じしない性質に見えた沙も、これには度肝を抜かれたらしい。ミキサーに触ろうとした指先を凍りつかせて、つかつかと歩み寄る奈々枝を待っている。
「ダメじゃない、勝手に触っちゃ」
その声には、再び就学前くらいの可愛らしさが戻っていた。奈々枝は何事もなかったかのように、ミキサーのツマミやらスイッチやらを細かく説明しはじめる。
「えっと、じゃあ、まず、電源入れる順番は?」
「でっき、みきさー、すぴーかー」
並木はというと、沙の口調と同じくらい心もとない思いをしている。
これを教えるのに、奈々枝はひと苦労だったのだ。とにかく沙はメカに弱く、CDデッキの電源さえ入れられなかったのだから。
「インプットとアウトプットは?」
「でっきから出た線をINPUTに、みきさーから出る線はOUTPUTに」
ある時は幼稚園児のようにたどたどしく、あるときはAETの教員のように流暢な発音をする。
「間違ってないよね……あ、分かった」
目盛りのついた上下ツマミの真上にあるスイッチを押す。突然、ラウドパンク系ハードロックの絶叫がスピーカーからあふれ出した。
突然の騒音に、五十鈴が仕切って稽古させていた舞台上の一同が、身体をすくめてのけぞった。スピーカーの真正面にいた沙などは、目を白黒させている。
「音源ごとにチャンネル設定するんだけど、使わないところはスイッチをOFFにしといてね」
分かったような分からないような顔で沙は頷く。それを見て取ったのか、奈々枝はパチン、と手を叩いた。
「よっし、みんなでゲームしよ!」
奈々枝は言い出したら聞かないところがあるので、さすがの五十鈴も10分だけという条件でOKを出した。
並木が手を合わせる。
「悪い!」
「何で部長が?」
そう言いながら沙をちらっと見やる五十鈴のまなざしに、並木は小さくなった。
そもそも奈々枝が始めたこのゲームは、沙に音響のミキサー操作を教えるためだけのものだ。それを止められなかったのは、部活の中のいざこざがイヤだったからである。
そんなことは気にも留めない様子で、奈々枝はゲーム開始を告げる。
「じゃあ、これからミキサーゲームを始めまーす!」
そう言うなり、沙にいきなり役割を振ってくる。
「じゃあ、イサゴちゃん
「何を
首を傾げるところに、小柄な体を思いっきり伸ばして部員全員に手を振る。
「集合! みんな音になって~!」
ぞろぞろと集まってくる部員に、奈々枝はこう指示した。
「みんなは音です。大きな声、小さな声、高い声、低い声、どんな声を出してもいいです。イサゴちゃんは、ミキサーの入り口で何人通すか決めて下さい。あとは、そうね……」
そこで戻ってきた更井と比嘉と苗木をびしびしびしと指差す。
「更井ちゃん
音の高中低で一列に並べ、そのてっぺんにマーセラス役の須藤信一を連れてくる。
「信ちゃん
「ハイパス?」
聞き返されるとせわしなく言葉を返す。
「声の高すぎるのはどけてください! 部長は……コンプレッサー!」
須藤と沙の間に押し込む。
たぶん、ミキサーのツマミを擬人化してるんだろうと見当はついたが、何のツマミだか見当がつかない。
すぐさま、そのツマミが回された。
「声のムダに高いのやデカいのは抑えてください!」
はいはい、と返事するや否や、奈々枝は甲高い声でその場を仕切り始めた。
「じゃあ、ミキサーゲーム始めまーす!」
いつも演出の五十鈴がやるように、パン、と手を叩く。
ホレイショー役の佐伯幸恵がいつになく高らかに歌いながら入ってきた。
「は~いってよ~ろしゅ~うござ~いますか~!」
「どうぞ」
沙がGAINの扉を開くと、並木の
「もうちょっと、抑えてくれませんか?」
「はい」
いつもの通りの低い声で答えると、須藤が
「その大きさで、高い声だけを」
ら~ら~ら~と小声で高く歌う佐伯を、更井・比嘉・苗木のイコライザ3人衆は恭しく通す。歌声は、極端に高く、また大きく、あるいは低く響き渡った。
後から入ってくる「音」たちは、ときどきイザコザを起こしたりもする。
「何で入れてくれねえんだよお!」
ドスの利いた声で凄むのを、並木がなだめる。
「もう少し小さな声で」
そこで奈々枝が叫んだ。
「ハイパス、カット!」
須藤が恭しく一礼する。
「どうぞお通り下さい」
おう、と答えたドスの利いた「声」は、のっしのっしと歩いていくと、高中低のイコライザに合わせて奇声を発した。
「どう、沙ちゃん、分かった?」
ゲームが終わってステージ上が稽古に戻ると、奈々枝は少々、鼻息を荒くして沙の反応を確かめる。
並木から見ても、どうだと言わんばかりの自信である。
だが、沙の反応は冷ややかだった。
「全然」
奈々枝の表情が凍りつく。並木の肝も冷えた。こういう子供っぽい娘だが、気に食わないことがあれば、人並みに怒る。
これは、そのサインだった。
「あのさ、柚木さんも一生懸命だったわけだし……」
フォローがフォローになっていないことは、並木にも分かっていた。一生懸命だったということは、説明不足をカバーしない。
だが、沙の「分からない」ポイントはそこではなかった。
「それぞれの仕掛けがどうなっているのかは、分かりました」
仕掛けという言い方は引っかかったが、奈々枝の面子が立ったことにはとりあえず安心する。
だが、続く一言にはいささか黒いユーモアが込められていた。
「面白かったけど、何でここまでしてもらったのか」
奈々枝は幼い笑みを満面に浮かべて答えた。
「私が面白ければいいの!」
稽古場を飛び交うセリフとダメ出しの中で、不思議な沈黙が2人の間を支配した。
ケンカが回避されたのか、それとも炎上したのか、並木には分からない。
「あの……」
並木がうろたえているところへ、背の高い舞台監督が舞台袖から駆け込んできた。
「大変だ! 部室が使用禁止になった!」
一瞬にしてステージ上が静まり返り、ピンポン玉とバスケットボールの音と、双方の部員の掛け声だけが響き渡る。
並木の脳裏に顧問の影と低い声が蘇ったとき、ただひとり、奈々枝が幼い声で唸った。
ゴーリキー『どん底』の幕切れの台詞をもじって。
「バカヤロウ、せっかくのミキサーゲーム、台無しにしやがって……」
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