第8話 オフィーリアをめぐる闘い
イスズがナミキにそっと寄り添って囁くのは、少女シェイクスピア…沙の耳にも聞こえた。
「見られたかな?」
「たぶん」
いつもは何があっても笑っているナミキの落ち込みようは、沙にも不思議だった。
そもそも、声だけ残して消えたあの影はいったい何だったのだろうか。
エルシノア城の先代ハムレットのような、はたまたマクベスの前に現れた荒野の魔女のような、得体の知れない何者かが、この一座……エンゲキブには憑りついているらしい。
とりあえず、沙は横から口を挟んでみた。
「誰ですか?」
口も利けないでいるナミキに代わって、イスズが不機嫌そうに答えた。
「コモン」
「誰を……
イスズは一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに冷ややかなダジャレを返してきた。
「確かに共有と言えなくもないわね、立場としては私達の
「……立場としては?」
トゲのある物言いが引っかかったところで、オフィーリア役のサライが悪態をついた。
「ああいうのは独裁者、ってんだよ」
沙の頭に浮かんだのは、暴君マクベスやリチャード3世だ。もっとも、自らが悲劇と史劇で描いた方の姿で、実在した方は真面目な実務家だったが。
そこへ遅れてやってきたのは、ハムレット役の男子である。沙も、まだ名前までは覚えていない。
1人だけ女子の制裁を免れた幸運が仇となり、他の男子から袋叩きにされる。
「お前は! お前は! お前は!」
「だってレイアーティーズだって来ないじゃないですか、塾とか何とか言って!」
空しい言い訳だけが、天井の高い部室に響き渡る。
そのゴタゴタを止めはしなかったが、沙も悪いとは思っている。とりあえず、女子の服の脱ぎ着や立ち居振る舞いは数日の学校生活で見て覚えたが、52歳の男の生理はどうにもならない。
気心の知れた、仲間の前では。
そのひとりとなったナミキが、ようやく立ち直って言い渡した。
「稽古場、急ぐぞ。その独裁者にガタガタ言われないように」
ナミキの指図は早く、稽古は例のステージですぐに始まった。
ハムレットへの失恋と、父の殺害によって狂気に冒されたオフィーリアが、再び人前に姿を現す場面だった。
《みんな、あの人を連れていった、棺に蓋もかぶせないで
ヘイ・ノン・ノンニー、ノンニー、ヘイ・ノンニー
お墓では雨がいっぱい涙を流してた
ごきげんよう、愛しい人!》
500年前にシェイクスピアとして自分が書いたセリフだけに、沙はつい、それに応えて続くセリフをつぶやいてしまう。
《お前が正気で、俺に復讐を迫っていれば、こんなに心が震えはしなかったろう!》
もっとも、それを口にすべきオフィーリアの兄、双剣の美丈夫レイアーティーズの姿はない。代わりに台本を読み上げているのは、舞台監督だった。
沙の目にも、それは稽古だから別に構わなかった。たぶん、歌うオフィーリアに兄の姿は映っていないだろうと思われたからだ。
《思い出のコクリコ、人恋しさの三色スミレ。可愛いコマドリは私の喜び……》
本来なら、レイアーティーズが愛と哀しみと怒りに震えるところだ。だが、
「オフィーリア、何で歌ってるんだっけ?」
イスズの問いは単純だったが、サライの答えも一言だけだった。
「発狂したから」
それは筋書きの上でのことだった。たぶん、イスズが言いたいのはそんなことではない。
なぜ、狂気の中でオフィーリアは歌うことにしたのかということだ。この場合、正気でないからわからないという答えは俳優失格である。
問題は、なぜ歌わなければならないのかということだ。それは、『ハムレット』を書いた本人が答えてほしいことでもあった。
実を言うと、沙…シェイクスピア本人でも言葉にはできないのだけれども。
だからこそ、オフィーリアに歌わせたのだ。理屈で説明できないことでも、詩で感じさせることはできる。
だが、イスズは少なくとも詩人ではなかった。
「狂気が感じられないのよ」
観客としては当然の感想だ、と沙は思った。だが、演出が役者を導く言葉ではないという気もした。
実際、サライは冷ややかに返したものである。
「そこまで行ったことないから」
役者が言ってはいけない一言だったが、沙は怒りよりも背筋が凍るのを感じていた。
イスズが、怒っている。サライとは真逆の、冷たい眼差しで。
「それは言い訳ね」
いつしか稽古場の空気までもが凍りつき、その場の一同は部長も舞台監督も、太鼓持ちの二人も、残らず女2人の対決の行方を見守っていた。
だが、沙は黙っていなかった。
「彼女には、オフィーリアであってほしいな」
作者としては、ごく自然な思いであった。自らの戯曲に描いた人物を、生かしてほしい。役者の言葉と身体を通して、生身の人間に変えてほしい。
それは、演出への願いでもあった。
「私にはムリってことかな」
沙…いや、シェイクスピアの本人の切なる希望は、イスズには伝わらなかったらしい。冷ややかな笑顔が、沙の真剣なまなざしを受け止めた。そこには、言葉とは裏腹の感情がある。
それがどういう心の動きなのか、沙は頭で分かっていても口にすることはできなかった。20年以上も芝居を書いたり演じたりしていると、当たり前になって言葉にはできなくなることがある。
代わりに、年端も行かぬ小娘が至極簡単な言葉でそれを口にした。
「怒ってるのに、笑ってみせてる」
シェイクスピアたる沙の記憶の中に、かつて書いた『ジュリアス・シーザー』の一節が蘇った。
《老人が愚かにも無知の暗闇に迷い、子供の知恵が光の中に真実を見破る》
シーザー暗殺をブルータスにそそのかそうとするキャシアスが、真偽正邪の転倒を喩えたものだ。
だが、サライの一言はむしろ、沙自身とイスズの陥った心の闇を、眩い閃光で開いたかのように思われた。
「人間って、悲しいときには歌うんだね」
そう言って立ち上がったサライの姿はもう、へそを曲げた木の強い役者ではなかった。
悲しみに耐えて歌ってみせるオフィーリアが、そこにいた。
《あの人はもう帰ってこないのかしら?》
《もう帰ってこないのかしら?》
《ええ、そうよ、死んだの》
《汝が死の床へ行くべし》
《あの人はもう帰らないのだから》
沙の心は震えた。作者自身でありながら、自らが描いた人物を目の当たりにして、その悲しみが胸を締め付けた。
500年前、どんな芝居を見ても、こんな気持ちになったことはない。
そこで、ふと思いついたことが口を突いて出る。
「敢えて見せないことで、抑えることで、逆に際立つのが感情ってものなのかな」
イスズも同じことを考えていたのか、ゆっくりと頷いた。やがて、手を叩いて芝居を止める。
さっきまでオフィーリアだったサライが、自信たっぷりに振り向いてみせる。だが、イスズは良いとも悪いとも言わずに、要望だけを口にした。
「登場人物がその場で取るべき行動を取ってね」
サライがにっこりと笑ってみせる。その真意が分かったからだろうと、沙は察した。
稽古が終わって解散を告げたナミキは、おどけたような顔つきで沙に歩み寄った。
「うまいもんだな」
サライにかけた最初の一言を聞かれていたのだとは気付いたが、嬉しくも何ともなかった。
「これくらい当然」
尊大なくらいの物言いだったが、作者としては、まだ足りないくらいだ。その上を行かせてやれないこともないが、それは演出の仕事だ。
だが、その演出がつかつかと歩み寄って口にしたのは、演技への指摘ではなかた。
「部内恋愛禁止なんだけど」
そう言うイスズの言葉もまた、何かの感情に蓋をしているように聞こえた。
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