第6話 尼寺へ行け! ある意味で……。
21世紀の少女の姿でウィリアム・シェイクスピアは、自らの書いた『ハムレット』が、自らの意図に反した演出で稽古されているのを真剣な眼差しで見ている。
《ああ、我々は臆病者、考えることは立派でも、その決意はいつだって口ばかり》
17世紀初めごろに見た若手の芝居にも似て、ハムレット役の座員はやたら手を振りかざして大騒ぎする。
ダメな芝居だが、無性に笑えてきた。ハムレットは今、狂気のフリをしている。その
《しっ……待て、オフィーリアだ》
この傍白で初めて、ハムレットは狂気の演技から解放される。このときハムレットは既に、覚悟を決めているからだ。
復讐のために、大切なものを1つ投げ捨てる。冷静に、その時を待つ。余計な力を込めてはいけない。
やがて、この世で最も大切な人が遠慮がちに微笑んだ。
《ごきげんよう、ハムレット様》
さっきまで2人の太鼓持ちを小突き回していた気の強い娘には、とても見えない。そこにはない本を丁寧に閉じて膝の上に置くと、顔を背ける。
恋よりも復讐を取ったハムレットの心を、オフィーリアが知ることはない。
その命を散らしてもなお。
ハムレットは、その悲劇に至る運命の一言を、低い声で言い放った。
《尼寺へ行け!》
展開が速すぎる、と少女シェイクスピアは思った。あまりにも、唐突過ぎる。
この一言に行きつくまでの、美と貞操をめぐる問答の積み重ねを無視して、いきなり!
はったと睨み据える先には、あの編み髪の娘、イスズがいる。人の作品をこんな風に脚本してくれた、小生意気なエンシュツが。
もちろん、この少女が作者本人だとは知る由もないはずだ。それでも、挑発的な微笑と共に振れた編み髪は、こう言っているように見えた。
……何かご不満でも?
そこには、500年前に生まれた傑作をバッサリ切ってみせるに足る、絶対の自信があった。
やがてハムレットは、居住まいを正す。
《結婚したければ、どうぞ、愚か者と》
本来なら天使に祈るはずのオフィーリアは、目を伏せたまま答えもしない。再び顔を上げたときには、もうハムレットはいなかった。
「はい!」
編み髪の娘が手を叩く。これがエンシュツの、「稽古終わり」の合図だ。そこで、少女シェイクスピアは白昼夢から醒めたかのようにハッとした。
思わず、見入ってしまった。
意に沿わぬ脚本をされた作者本人のはずなのに。
それに気づかれていないかと、イスズとかいうエンシュツの様子を伺う。だが、いきなりシモテの幕から、クローディアスとポローニアスが現れた。
ハムレットとオフィーリアのやりとりを聞いていたのだ。
「息子のあれは恋ではないな。腹に一物ある顔だ。イングランドへやるなら今だ」
「いや、恋でございましょう。ああ、オフィーリア、何も言うな……」
「言わねえよ」
やさぐれたオフィーリアもあったものだが、稽古はもう、終わっている。カミテとかいう舞台の左側で、イスズはもう、体格のいいハムレットをやたらと褒めちぎっていた。
「そう、それよそれ! 最低最悪の言葉で恋人を傷つけながら、愛を語ってるの、どんなに愚かでも、本当は僕と結婚してほしかった、って!」
その愛想のよさにムッときたが、それ以上何か言う気は起こらなかった。
代わりにイスズが、切り替えも早く声を張り上げる。
「クローディアス・ポローニアス、稽古もう終わり!」
一続きの名前で呼ばれた2人がぼやいた。
「芸人か」
「だってオレたち、今日出番なかったんだぜ!」
オフィーリア役の娘が、2つの頭を続けざまに平手で叩く。
「みんなそうなの! ローゼンクランツもギルデンスターンもマーセラスもホレイショーも!」
その日は名前すら聞いていない登場人物の名前を並べ立てる。
稽古の終わりに、舞台上の座員たちは再び集まって、挨拶を交わした。少女シェイクスピアは感想を求められたが、敢えて何も言わなかった。
本当は、無言でこっそり立ち去るつもりだったのだ。完全に、負けた。書いた本人が、500年も後の小娘に。
それなのに、最後まで居座ってしまったのは何故だろう?
考えている間に、座長のナミキが厳かな声で告げる。
「撤収!」
舞台にモップをかけたり明かりを消したりと走りまわる部員たちの間を、シェイクスピアはあくまでも一人の少女として去っていく。
実をいうと、それほど悪い気分ではない。むしろ、なんだか、さっぱりした感じさえする。
腐ったニシンに当たって死んだはずが、気が付いてみれば500年も経った異国で、しかも若い娘の身体になっている。生きていたら、こんな話を1本書きたいくらいだ。
まあ、生きているといえば生きているが。
その上、自分の戯曲はまだ残っていて、多少いじくられてはいるが、まあまあの芝居にはなっている。結構なことではないか。
問題は、これからだ。
もう一度、ウィリアム・シェイクスピアをやるか、それとも、別の生き方をするか。
なかなか結論の出ないところで立ち往生していると、いきなり後ろから肩を叩かれた。
「ありがとうございます、お疲れさま」
振り向くと、慇懃無礼なエンシュツのイスズだった。
「
こういうやり方は嫌いだが、フランス語でからかってやる。さすがにそこまでは理解できなかったのか、怪訝そうな顔をされた。
してやったり。
みみっちいが、こんな意趣返しで満足するしかなかった。もう顔を合わせることもないと思ったからだ。
だが、イスズはイスズでまだ用があるらしかった。
「ひとつ聞きたいんだけど」
「どうぞ」
本当は面倒臭い。だが、この娘の眼差しは割と真剣だった。
「どうして、ハムレットは嘘をついてるって断言できるの? 父を殺されたんだから、憂鬱な気持ちは本当かもしれないのに」
そんなことか、と思う。作品の解釈を作者に聞くなんて野暮なことだ。だが、作者としては答えないわけにはいかない。
「死ねば帰ってくる者などいないあの国がある、って訳したよね、あなた」
「ええ」
再び怪訝そうに返事をされると、何やらやる気が出てくる。人に理解されないことをやるのが面白い。そこは若い頃と変わらない。
成り上がりの、カラス。
「じゃあ、エルシノア城の場面は覚えてる?」
「あ……」
それで察しがついたらしい。
「だから、父の幽霊に語らせなければならなかったの」
「つまり、ハムレットはウソだと分かってて言ってる……」
やられた、という顔をして天井を仰いだイスズは、楽しげに笑った。
「じゃあ、もうひとつ」
「どうぞ」
今度は何を言い出すか、楽しみだった。
何を聞かれても、言い抜けてみせる。戯曲でさんざん描いてきた、あの道化たちのように。
そういえば、あの座長もそんな道化のようだった。
他のことに気がそれたせいか、次の問いは不意打ちだった。
「あなた、本当に女の子?」
「え……?」
転生を見抜かれていた? まさか。
確かに、芝居を打ったつもりはない。この3日間、見るもの聞くもの、驚きと戸惑いの連続だった。なんとか余計なことはせぬよう言わぬよう、小さくなっているのが精一杯だったのだ。
それなのに、こんな目立つことをしでかしてしまったのは、やはり舞台の魔力だろうか。
何もない舞台に、人がいる。それだけで。
勝ち誇ったように、イスズが両手で肩を叩いた。
「大丈夫、みんなそうだから」
この娘も、本当は男? いや、そんなはずはない。豊かな胸が、柔らかそうな生地のシャツを突き上げている。
それを見ている目を何とかそらしはしたが、編み髪の娘が言いたいのはそういうことではなかった。
「目立たない、絶対!」
なるほど、これも芝居の魔力だと少女シェイクスピアは思った。
きれいはきたない、きたないはきれい。
同じものに混じってしまえば、良くも悪くも目立つ者が目立たなくなり、おかしなことが当たり前になる。
「だから……」
まっすぐな目が、見つめてくる。その澄んだ瞳に、49歳の男が釘付けになる。
「一緒にお芝居、やらない?」
「……うん」
砕けた言葉で誘われて、頷いてしまったのは何故だろうかと考えている間もなく、周りから喝采が巻き起こった。
「やった!」
「部員ゲット!」
いつの間にかイスズとのやりとりは、取り囲む座員たちに聞かれていたようだった。そこから歩み寄った座長のナミキが、畏まった顔で尋ねる。
「では、お名前をどうぞ」
「オキナ……イサゴ」
この3日間で真っ先に覚えた自分の名前だった。不思議なことに転生したら
すなわちシェイクスピアの当て字となるのであるが、そこまではまだ、本人も知らない。
晴れて部員となった
「ハムレットの台詞……《雲を霞と消え去る》って喩え、おかしくない?」
「へえ、どこが?」
砕けた口調で受けて立つ相手に、シェイクスピアは修辞論をぶちかます。
「雲と霞は消え去るものなんだから、ハムレットが死んで消えることへの喩えには使えないんじゃない?」
「あ、それ……」
今度はイスズが会心の笑みを浮かべた。
「そう、本当は《逃げ去る》が正しいのよ。ハムレットは敢えて《逃げるように死ぬ》って言ってるわけね」
やられた。作者が、
だが、イスズはちょっと考えて、少女シェイクスピアの前に人差し指を立ててみせた。
「でも……ハムレットが熱い男なら、《死ぬのは逃げるのと同じだ》でもいいか」
くるりと背を向けると、ステージから去る座員の群れを追いかける。
「ハムレット! ハムレット! 相談があるんだけど!」
それは、500年前のグローブ座で、自らの後ろ姿を見ているかのようであった。
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