第3話 待て、オフィーリアだ

 静かではあるが、確かにそれは部長の一喝であった。だが、演出の菅野かんの五十鈴いすずは、並木慎吾に振り向きもしない。

 見知らぬ少女に振り上げるところだった手を、何事もなかったかのように差し出す。

「よろしかったら、やってみません? ハムレット」

 背後で部長が手を叩くのが分かった。

「上手い!」 

 それは演出なら当然の仕切りである。舞台上でも、しくじったと思ったら、その行動や動作を「正当化」すればよい。

 状況に合わせて登場人物が目指す目的――勝利条件とでも言おうか――をすり替える「インプロヴィゼーション即興」訓練は、この辺りの演劇部ではもう珍しくもない。

 このくらいできなければ、県大会への出場は覚束ないだろう。

 地区大会ではそのレベルの激戦が予想されるだけに、立ち稽古になって演出プランの変更を迫られるのは、キャストも困るし演出の信用にも関わる。

 だが、部長は舞台監督にさらりと言った。

「スケジュール的には、どう?」

 その作品の上演が終わるまで、段取りを全て仕切るのが舞台監督の仕事だ。部長といえども、その進行はすべて任せざるを得ない。

 背の高い男子が、ひょろっとした腕でジャージのポケットから手帳を取り出して眺める。

「あっと、まだ立ち稽古始まったばかりなんで……」

 とはいうものの、予定では2週間しかなかったはずだ。2回の定期考査とその前の1週間ずつを挟むと、地区大会までの稽古日数はギリギリである。できれば、予定通り立ち位置の確定ブロッキングを終えたい。その上で各シーンを死ぬほど繰り返してキャストに登場人物の魂を吹き込むのだ。

 そうすれば、通し稽古に1ケ月かけて、最初から最後まで登場人物の人生を送らせてやることができる。

 だから、返事は1つしかない。舞台監督の要望は、不可能でない限り絶対だ。

「9日で仕上げます」

 キャストたちに戦慄が走った。さっきクローディアスとポローニアスをどやしつけていたオフィーリアまでが「無茶振りやめて」と目で哀願している。

 五十鈴は有無を言わさず稽古を再開した。演出にケチをつけた忌々しい女に、礼儀正しく自分の台本を差し出す。

「ごめんなさい、私の書き込みばっかりなんですけど……」

「いえ、お構いなく」

 ボブカットの少女のメガネが、きらりと光った気がした。背中に寒気が走ったが、相手は同じ高校生、しかも部員ではない。恐れることも、変に媚びることもない。

 やるべきは、見学者への気遣いだ。

「じゃあ、誰かプロンプターついて!」

 すかさずハムレット役が手を挙げたが、少女はそちらへ満面の笑顔を向けた。

「結構です」

 愛想笑いと共にハムレットが体操座りをすると、部員一同は飛び入りの少女を緊張の面持ちで眺めた。

 五十鈴としては、気持ちよくない緊張である。キャストの萎縮が、肌で感じられる。これを和らげるのも、演出の腕如何にかかっている。

「あ、もしかして、セリフ全部入ってるとか?」

 とっさの褒め殺しであった。

 もちろん、日本中探せば、中島敦『山月記』や太宰治『駈込み訴え』を諳んじて上演する高校生がいないわけではなかろう。だが、プロでもあるまいし、『ハムレット』が全て入っているわけがない。

 常識で考えれば、どれほど意地を張っているにしても台本ぐらいは手に取るはずだ。

 そう、常識では。

「入ってます」

 五十鈴の頬がひくひくと痙攣した。それを察したのか、部長がまあまあとなだめる。それで気持ちは少し治まったが、稽古への闖入者を頭のてっぺんから爪先まで眺め渡さないではいられなかった。

 身長はだいたい150㎝ちょっと、高いとも低いとも言えない。制服の着こなしは校則どおり、スカートの裾からは膝頭が見えず、ハイソックスは純白。

 胸は、どっちかというとない方だ。これでボンキュッボンだったら体形が余計に強調されて、姿をくらましたクローディアス役とポローニアス役などは興奮で手が付けられなくなり、今日は稽古にならなかっただろう。

 そんなわけで、特に目立ったところはない。

 常識がないのか自信家なのか、それともバカなのか、単に引っ込みがつかなくなっただけなのか。

 演出だけでなく、部員一同にそんな憶測と忖度が入り混じった空気の中、部長が丁重に特殊事情を説きはじめた。

「上演時間が60分以内なので、かなり意訳してあるんです、原典から」

 少女は不満げに、しばし考えていた。これで台本などいらないと吐かした日には、なら勝手にしろと罵詈雑言を並べてステージを去り、部活にさえも再び戻らないくらいのつもりだった。

 しかし、少女はすっきりとした笑顔で手を差し出した。

「見せてくださいな」

 貸してください、ではない。五十鈴はそこにも引っかかったが、自分で言い出したことである。

 黙って渡した台本には、言葉の意味からアイデア、読み合わせしか顔を出さない顧問からのダメ出し、口にはできないキャストへの悪態などが、既にびっしりと書き込まれている。

「誰の仕事ですか? この意訳」

 少女の何気ない問いは、五十鈴の癇に障った。

 部員全員から意見を募ったが、最後に書いたのは自分だ。

 無言で手を挙げると、ハムレットを演じることになった少女は無言で上手袖に付いた。

 五十鈴は逃げた2人を呼ぶ。

「クローディアス! ポローニアス!」

 韻が踏んであるので、こう呼ぶと何だか漫才コンビのようにも聞こえる。別にそれを期待していたわけではないが、2人は体育館内の喧噪を出囃子に、下手袖から調子よく出現した。 

「ど~もお~!」

「お待たせいたしました!」

 部長が静かに尋ねる。

「どこに行ってたの?」

 本来なら演出が聞くことを部長が尋ねたのは、規律の問題として捉えたからというよりも、それを盾にとってキャストへの叱責をさせないためである。五十鈴もそれは分かっていたので、その先は部長に委ねることにした。

 答えは単純だった。

「連れションです、連れション」

「そしたらこいつのナニがね……」

 余計な言い訳は、そこで終わった。

「そういうのをセクハラっつーんだってさっき言ったろが!」

 仁王立ちしたオフィーリアの一喝で、デンマーク王と奸臣は小さくなって袖の奥に隠れる。劇中でハムレットに捨てられて発狂、死に至る薄幸の姫君は、再びパイプ椅子に座るや、端然と架空の本を広げた。  

 部長が頭を下げる。

「すみません、演出さん」

 五十鈴は全員の立ち位置を確認すると、全員に告げた。

「では、ハムレット入場から!」 

 ぱん、と手が叩かれると、制服姿のハムレットは台本を読み上げながら、一歩一歩を確かめるように歩きだした。


《ここに残るか? 雲を霞と消え去るか? それが問題だ》

《どちらがより気高い? 運命の石つぶてに耐えるか、困難と闘って死ぬか》

《死ねば楽になるって? さて、その後にはどんな悪夢の国が待っていることか》

《人生の辛さに耐えもしよう。死ねば帰ってきた者などいないあの国があるのだ》

《ああ、我々は臆病者、考えることは立派でも、その決意はいつだって口ばかり》

《しっ……待て、オフィーリアだ》


 ハムレットを呆然と眺めていたオフィーリアは、目が合うとたちまち居住まいを正した。


《ごきげんよう、ハムレット様》


「はい!」

 演出の五十鈴が手を叩いて首を傾げた。その顔には、隠しても隠しきれない勝利の笑みがある。

「やっぱり、よくわかんないんですけど」

「何が?」

 負けじとばかりに、少女も冷ややかに笑う。その視線をかわすように、五十鈴はオフィーリアに親指を立ててみせた。

「OK!」

「サンキュー」

 パイプ椅子の上で足を高く組むオフィーリアに、少女はげんなりした。五十鈴は構わず、少女に対するのとは正反対の砕けた言葉で講評を続ける。

「確かにハムレットはアレだったけど、アレならああなるよね、オフィーリアは」

 そこで深い溜息をひとつ吐いた少女は、アリーナに向かって声をかけた。

「ねえ、どうだった?」

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