第2話 世界の蝶番が外れるとき
「あ、そこ、アガリガマチ!」
舞台に平伏していたナミキとかいう座長らしき少年が叫んだが、沙…少女シェイクスピアは気にもしない。
というか、何のことだかわからない。
舞台のことはこの若造よりよく知っているつもりだったが、「その端に足をかけるな」などとは誰に言われたこともなかった。
舞台上の座員一同が、不審げにじろじろ見ている。それは当然だ。この少女がシェイクスピアでなくても、稽古の邪魔をする者にはそんな態度を取るだろう。
ただし、内心だけ。
そこをうまく凌ぐのも、芝居のコツというものだ。ここの座長に、それだけの器量があるかどうか。
少女は明らかに、座長をモノサシとして、この一座を値踏みしていた。
猟師なら、苦労して捕らえた兎を、下手な料理人に渡したくはあるまい。
誰であれ、戯曲を書いた本人であっても、同じことを考えるだろう。
「何か、ご迷惑でしたか?」
礼儀正しく尋ねてはくる。まあ、合格点だと少女は思った。
現代に転生したウィリアム・シェイクスピアとしては。
1564年、イングランド王国のストラットフォード・アポン・エイボンに生まれる。1582年、18歳で結婚。因みに相手は26歳で、既に妊娠していた。
1592年には俳優業の傍ら脚本も手掛け、「成り上がりのカラス」の異名を取る。1596年にはグローブ座を劇場とする宮廷劇団経営にも携わり、1603年には国王が宮廷劇団のパトロンとなっている。
1613年没。腐ったニシンに当たったとか当たらないとか、その辺りは定かでない……この時代では。
そして現在、本人にもどういうわけだか分からないが、その姿はこの3日間、女子高校生である。
どうやら、ハムレットの言う通り、世界の
慇懃な座長の顔は、怒っているのか笑っているのかよく分からなかった。この国の人間はたいていそうだということは、この3日間でどうやら呑み込めてはいたのだが。
「迷惑なんじゃなくて、不満なの」
言いたいことを対句を使って簡潔にまとめてみせる。この国特有の女言葉は自然に口をついて出た。
座長は丁寧な言葉で問いかける。
「では、具体的に教えてください。どんな点ですか?」
時代も国も違うはずなのに、言葉が通じるのは不思議なものだった。少女は舞台の上の座員たちを、改めて見渡す。
演者から見て右手を、この国では「シモテ」というらしい。そこに立っていたハムレットの叔父クローディアスと、奸臣ポローニアスは、ハムレットの恋人オフィーリアに襟首つかまれて外に出ていったところだ。
何が起こっているかは、彼女の声でだいたい分かる。
「男同士ならちょいエロだか何だかで通るかも知れねえけどな、女から見りゃそういうのはセクハラっつーんだよセクハラ!」
ちょいエロとかセクハラとかいう言葉が何を指すのかよく分からないが、男のように怒鳴り散らしているのは明らかに女だ。
イングランドでは少年を使っていたが、どうやらこの時代、この国では女を舞台に上げてもいいらしい。
左手、つまり「カミテ」では、ハムレットが出番を待っている。ちょっと体格が良すぎるのではないかと、少女シェイクスピアは思った。
そして
その口が、少女の目の前にいる座長を嫌味たっぷりに呼んだ。
「休憩終わっていいですか~?」
少女の返事がなかったからだろう、座長は再び役者たちを呼び集めた。
「憂鬱な人ってさ、もっと力いっぱい歩くのよ」
ハムレットを演じる役者に稽古をつけるディレクターの一言が、少女ウィリアム・シェイクスピアには引っかかった。
憂鬱なればこそ、力いっぱい。
それはセリフとしては逆説的で面白かった。演者にそんな器用なことができるものかという疑問はともかくとして。
しかし、気に障ったのは別の一言だ。作者たるシェイクスピアとしては聞き捨てならない。
「ハムレットは、もっと熱い男よ」
役者本人もディレクターも、いや、その場にいる一同が唖然として少女を見た。
特に、ディレクターは編み髪を振り子のように揺らして詰め寄る。
「何でよ?」
少女は口元を歪めて笑った。いつの時代も、こういうのは必ずいる。別に一歩譲ってやってもいいが、初対面の相手を見下してかかる輩には、それなりに教訓を与えてやる必要がある。
「ハムレット、何しようとしてる?」
いちばん分かりやすいところから聞いてみると、馬鹿にするなとでもいうかのような突慳貪さで答えが返ってくる。
「復讐に決まってるじゃない、父親の」
「復讐って、憂鬱なこと?」
狙いは、ここだった。
座員たちは、ディレクターの答えを待っている。特に、ハムレットを演ずる役者にとっては切実な問題であろう。下手をすれば、今までとは全く別の感情を作らなければならないのだから。
しばらくの沈黙があって、ディレクターがようやく口を開いた。
「稽古、続けていいかな?」
「答えが聞きたいんだけど」
イエスと答えなかったということは、ノーだと判断していい。少女はそこで矛を収めることにして、「
だが、議論は終わっていなかった。
「何であんたにそんなこと言われなくちゃいけないの?」
少女の背後で、ディレクターの震える声が聞こえた。今度は、少女がしばし沈黙する番である。
こう答えるしかなかった。
「……話、そらさないでよ。みっともない」
作者ウィリアム・シェイクスピア本人だと言ってしまえばおしまいなのだが、それを誰も信じないなら意味がない。
「答えが聞きたいんだけど」
自分で放ったのと同じ言葉が返ってきたのを、少女は500年ほど前……本人にしてみれば数十年前に覚えのある自らの言葉で嘲った。
「
英語での微かなつぶやきなら聞こえまいと思ったのだが、ディレクターは意外に利発な娘だったらしい。言葉も意味することもきちんと聞き取った上で、感情を爆発させた。
「いい度胸じゃない!」
つかつかつかっと歩み寄る。その勢いに、椅子の上のオフィーリアはさっきの威勢良さはどこへやら、身をすくめて立ち上がることさえできない。悪役クローディアスとポローニアスに至っては、さっさと舞台脇の階段を下りて逃げ出してしまっている。
ウィリアム・シェイクスピアも52年の生涯で、女同士の喧嘩というのにはしょっちゅう出くわしてきた。演技の肥やしにもしたし、芝居を書く時のタネにもした。
だが、まさか死んでから我が身でやらかすことになろうとは、神は知ろしめしていたであろうか。
「ええと……」
これまで書いてきた芝居の中で、こんな場面があったろうか。書きすぎて、いちいち思い出すこともできない。できたところで、それを行動に移せるかどうかは
本番でしくじったときのように、心と身体が強張る。だが、それを客に悟られてはならない。目の前にいる、この一座の団員は、いわば500年経って現れた『ハムレット』の客なのだから。
そう思うと、少女ウィリアム・シェイクスピアは毅然と相手を見据えないわけにはいかなかった。
それが、相手の挑戦を受けたと取られたとしても。
だが、編み髪の娘の平手打ちが飛んでくることはなかった。
「やめませんか? そういうの」
穏やかながらも低く落ち着いた、貫禄のある少年の声が建物全体に響き渡ったからである。
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