ハムレット夢幻

邂逅のステージ

第1話 ここに残るか? 雲を霞と消え去るか?

 放課後の体育館は実を言うと、演劇部の稽古場としてはあまりふさわしくない。

 県立陵みささぎ高校も例に漏れず、部長の3年生、並木慎吾なみきしんごもまた、かねてよりそう思っていた。

「ね~、ぶちょ~、もっと静かな場所ないんですか」

 毎日のようにごねる部員たちの言うことも尤もだと思いながら、いつものとおり、一言しか答えない。

「ない」

「稽古前のウォーミングアップに簡化24式太極拳ちゃんとやってるんスけど」

「ない」

「発声練習、呼吸ブレスからオペラ歌手のみたいな全身振動音、北原白秋『五十音』まできっちりやりきってるんですけど」

「ない」

 部員たちには、本当は済まないと思っている。

 目の前でバスケ部やバレー部が雄叫び上げて練習していれば、自分の声だって聞き取れるかどうかも怪しいのだ。

 最初のシーンの立ち位置につきながらキャストたちがなおもぼやく。それで稽古が遅れることのないよう、遠間からいちいち声をかける。

「教室は?」

「施錠されてるだろ!」

「広い部屋あるじゃないですか、会議室とか」

「部活動には貸してもらえないの!」

 劇は舞台で行うもの、舞台は英語でStageステージという、というのが世間では暗黙の了解になっている。だから、たいした議論もなく、なしくずしに活動場所としてあてがわれても不思議はない。

 この高校の演劇部も、その例に漏れなかったわけである。

 例外的に1年生たちは、照明担当と効果担当を残して、舞台監督と共に小道具やら舞台装置やらを作りに、グラウンドの隅にある部室の前へと行ってしまった。

 そんなわけで、アリーナの床を叩くボールと威勢のいい掛け声のなか、演劇部は「その向こうまで聞こえる声で」今日も稽古を始めるのだった。

 その、アリーナの向こうで1人の女子生徒が舞台をじっと見つめているのに、他の部員の誰ひとりとして気付いた様子はない。 


 演出の女子生徒が、キャストに確認の声をかける。

「じゃあ、オフィーリア下手しもて前で板付き。ハムレットは上手かみて前袖、クローディアス、ポローニアス下手奥袖で待機」

「はい!」 

 体育会にも負けない威勢のいい声で、舞台上の全ての部員が答える。

 もちろん、上演作品は多くの人に知られたウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』。『マクベス』『リア王』『オセロー』と並んで「四大悲劇」と呼ばれ、高校生にもなれば誰しも聞いたことぐらいはあるはずだ。

 もっとも、楽屋言葉のほうは、ほとんどの体育会部員には理解できないだろうが。

 舞台に向かって右方向が「上手」、左方向が「下手」。舞台は客席側から「前」「中」「奥」に分けられ、それぞれの上手と下手にはキャストが引っ込む幕がある。これを「袖幕」という。

 慎吾は上袖でハムレットの背後に立ったが、下袖に行ったクローディアスとポローニアスが声を上げた。

「下手奥立てませーん!」

「どうしたの!」 

 ステージ利用上のトラブルに対処するのも部長の仕事だった。

「演出さん、ちょっとごめん」

 駆け足で舞台を横切る途中で、並木はアリーナの向こうにいる制服姿の女子生徒に見つめられているような気がした。

 気のせいだと思い直して、下手袖を確認しに行く。

 体育会のものと思しき制服類が、脱ぎ散らかしてあった。急いで、舞台端まで駆け寄る。もちろん、足元で横に渡された「上がりがまち」には絶対に足をかけない。

「すみませーん、着替えたの、どけてもらえませんか?」

「はーい!」

 爽やかな笑顔で答えたのは、きれいな脚をハーフパンツからさらした女子バレー部員たちだった。

 歓声を上げるクローディアスとポローニアスだったが、つかつかと歩み寄ったオフィーリアに平手で頭をしばかれて沈黙した。


 袖幕に改めて主役と悪役が付いたところで、慎吾は舞台監督の男子生徒に頭を下げる。

「お願いします!」

 これが、舞台に携わる者の礼儀だと思っているし、部員たちにも毎日のようにそう言っている。

 そして、約1週間かけた読み合わせを終えての立ち稽古は、これが3日目になる。

 舞台監督は、おもむろに稽古の開始を告げた。

「それでは、ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』、台本20ページから始めます」

 演出が、一息ついて状況を述べた。

「ここはデンマーク、エルシノア城の一室です。先の王であった父の幽霊から、王子ハムレットは伯父のクローディアスによる暗殺と王位の簒奪を知らされます。復讐のためにハムレットは狂気を装い始めましたが、それを訝しんだクローディアスは、家臣ポローニアスの娘オフィーリアがハムレットの恋人であるのを利用して、ハムレットに罠を仕掛けました。そうとも知らないハムレットは、オフィーリアの呼び出しに応じます」

 そこで演出がパン、と手を叩くと、与えられた状況の下でキャストたちが動き出す。

《ここに残るか? 雲を霞と消え去るか? それが問題だ》

 ハムレットが力ない足取りで、とぼとぼと現れる。生と死の狭間の憂鬱に悩む、知的な若者の姿がそこにある。

《人生の辛さに耐えもしよう。死の後に至る国から帰ってきた者などいはしない》

 ため息まじりに語る声は、体育館中を満たす体育会特有のノイズの中でも、確かにアリーナの向こうまで届くだけの響きを持っていた。

 だが、そこにはさっきの女子生徒はもういない。


「ヘタクソ」

 静まり返った体育館で、ステージの下からひょいと顔を出したのは、ボブカットのメガネ少女だった。

 その一言に、稽古場の空気は凍り付く。

 しばしの沈黙の後に、演出の叱咤が飛んだ。

「ハムレット、芝居止めない!」

 だが、突然のダメ出しに言葉を失ったのは演出も同じである。

「いや、稽古止めて」

 そう言ったのは部長の並木だった。演出は口を尖らせる。

「だって芝居止めたのハムレット……」

「これは稽古じゃなくて、部活としてのトラブルだ」

 その辺の線引きをはっきりした上で、並木は少女に尋ねた。

「演劇部の活動に何か故障でもありましたか?」

 苦情とは言わずに故障という言い回しを使う。怒りを限界まで抑えた結果である。本当は、部活の邪魔をされて面白くないのは、慎吾も同じだった。

 実をいうと、バスケ部とバレー部も、固唾を呑んでこのやりとりを見守っている。各々の視線の向きから慎吾は察した。

 アリーナの向こうにいたこの少女は、2つのコートをまたいで一直線にやってきたのだろう。

 体育館中にみなぎる緊迫した空気を破ったのは、下手袖に控えた悪役2人である。

「故障がなかったから、唐辛子くべたんだろ」

「うまい! 座布団一枚!」

 分かる人にはわかる古典落語『くっしゃみ講釈』ネタで勝手に盛り上がる2人だったが、その点でイラっときた慎吾に睨まれて素知らぬ顔をする。

 その隙に、少女はステージの端に足をかけて這い上がろうとしていた。


「ああ、ちょっと!」

 並木が叫んだのは、スカートの中が見えそうだったからではない。むしろ、そっちに気付いたのは下手袖の男2人である。

「あ~!」

「惜しかった……」

 そのジャージの襟首2つをまとめて掴んだのはオフィーリアである。さっきまでパイプ椅子に座って読書のパントマイムをしていた楚々たる美少女は、ドスの利いた声で凄んだ。

「お前らちょっと体育館ウラまでつきあえやコラ」

 言うなり、並木に振り向いた。

「ちょっと、休憩にしませんか?」

 憮然と頷いた演出に目を遣って、全体に告げる

「10分休憩」

 たるんだ空気をそれで正当化した並木に、女子バレー部と男子バスケ部の部長がそれぞれ駆け寄った。

「なあ、並木……」

「練習再開していい? 並木くん」

 いいも悪いも、迷惑をかけたのは演劇部のほうである。というか、迷惑かけてナンボというところが、演劇部にはある。

 男は土下座とばかりに、並木はステージに正座すると床に額を擦りつけた。

「どうぞ、ご随意に」

 これを、この少女はどう取ったか。

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