その2 時を越えた想い
「分からない」
同じ教室の同じ席で、
この3日あまりで何とか慣れはしたが、それと納得するしないは別の話だった。
「なんで私、こんなところにいるんだろ」
言っていることは大して変わらないが、悩んでいることには天地の開きがある。
沙は今、不条理のどん底にいた。
3日前に目が覚めると、やはりベッドの中にいた。てっきり死んだと思っていたのだが、どうもそうではないようだった。
息も苦しくない。腐ったニシンに当たって息も絶え絶えだったのが、嘘のようである。
こんな結末で終わりたくないという思いが神にでも通じたのかと思うと、その奇跡に祈りたくなった。
ストラッドフォード・アポン・エイヴォンはそもそも、商業で栄えただけでなく、教会の町でもあった。
だが、聞こえてきた鐘の音は、教会のものではない。
ゴ~ン……。
窓を開けてみようとして気が付いた。
カーテンが違う。高価なガラスがはまっている。その外の光景は……。
「まあ、3日で慣れたんだけど」
このアジアの異国はともかく、まだ慣れないのは、この身体だ。
52歳で死んだはずの男が、16歳の娘の身体で生きている。
こんな状況は、自分の作品にもある。
まず、『間違いの喜劇』。
生き別れとなった双子の兄弟と、双子の召使の物語だ。
いきなり知らないところに連れてこられて、本人として扱われる戸惑いで笑いを取ったものだ。
それから、『十二夜』。
生き別れとなった双子の兄を、妹が男装して探し求める物語だ。
諸事情あって、女を舞台に上げるわけにはいかないので、声変わり前の少年に「男装した少女」を演じさせるというややこしいことをしなければならなかったのだが……。
ベッドのある部屋を出る前にも、ここまで考えることはできた。あとは、その場で見えてきたことをやり遂げるだけだ。
女装した男として、全く知らない環境を生き抜く。
まさに、「人生は舞台、全ての男女は役者」といったところだ。
かつて自分で言ったことだが、自分で実行するとは思ってもみなかった。
「いきなり現れた両親との関わりでしょ、いきなり制服を着て通うことになった学校でしょ、会ありがたいことに見ず知らずらしい級友たち……」
独り言も、年頃の少女らしくなった。
だが、この人生がひとときのものであるにせよ、いつまでも続くものであるにせよ、できることなら、余計な人や物事と関わらないで済ませるのが無難というものである。
それでも、この少女シェイクスピアが気になって仕方がないものがあった。
……ワイワイワッショイ ワイウエヲ 植木屋井戸替えお祭りだ
面白い響きの詩だった。転生というか生まれ変わりというのか乗り移りというか、この娘の身体で蘇ったからか、このアジアらしい異国の言葉がちゃんと分かる
巧みに頭韻を踏んだかと思えば、語頭の母音だけを切り替えてくる。
集団で読み上げている所を見ると、誰かが芝居の稽古をしているらしい。やがて、別の詩が群唱される。
……それは正気の沙汰ではない物語、怒りの響きに満ち満ちて、ほとんど何物でもない。
かつて書いた『マクベス』の一節だ。
思わず知らず、身体は声の聞こえる場所を探し求めて歩き出す。
この「オキナ イサゴ」とかいう娘を演じるため、死に物狂いでこの国のことを調べつくしてきた3日間で、最初に分かったことがある。
ここがアジアの端の
テレビにスマホにインターネット、まるで『マクベス』で描いた荒野の魔女が見せる幻のようなものがあふれている。
だが、そんな時代に、このアジアの小さな国で、自分の作品が演じられているのが聞けるとは……。
作者としては、実際に見てみたくもなる。やがてたどり着いたのは、この学校の
ギリシアの神殿に似せられた正面玄関から入ると、目の前には球技に興じる若者たちの姿が見える。
その向こうには、高い所に
さっきは『マクベス』だったが、
女が1人去り、密談をしていたらしい2人の男が舞台の端で身をすくめる。舞台中央に1人残された女を挟んだ反対側に、もう1人の逞しい男が現れる。
その場面に、少女シェイクスピアは心当たりがあった。
「ハムレット……」
球技に興じる若者たちの喚声はすさまじかったが、その場面の台詞は何とか聞き取れた。
かつて書いた悲劇『ハムレット』だった。
場面は第3幕第1場、エルシノア城の一室である。
最初に去った女は、デンマークの王子ハムレットの母、ガートルードだ。
《あなたの美しさと優しさで、ハムレットの荒れた心が静まりますように》
ハムレットの恋人オフィーリアに告げる元の台詞は、もっと長い。随分と意訳されたものだ。
隠れた男のひとりは、奸臣ポローニアスである。
娘のオフィーリアと、ハムレットの叔父である国王クローディアスに告げる。
《オフィーリアはここへ。陛下はこちらで隠れてご覧を》
そこで娘に説いて聞かせるのは、この台詞だ。クローディアスの台詞を引き出し、次の場面を動かす大事な伏線である。
《さあ、この本を。世間では真面目なフリをして、悪魔の顔を隠すものだ》
本を読み始めるオフィーリアを前に、クローディアスは観客に向かって内心を語る。
《だが、どんな美しい言葉で飾ろうと、俺のやったことの醜さを隠せはしない》
王子ハムレットの父を殺し、王位と母を奪った良心の呵責に苦しむクローディアスは、ポローニアスに促されて縮こまる。
《ほら、ハムレット様が!》
たとえ500年近い時間が流れているとはいえ、手塩にかけた作品が目の前でズダズダにされているのは見るに堪えない。
そこで現れたハムレットが何を言うか耳を澄ましていると、舞台の隅に座り込んで芝居を見ていた若者が、ふとこちらを見た。
その物腰から、この劇団の座長であろうと沙…少女の姿をしたシェイクスピアは思った。
そこで「もしも」と思う。
もし、この若者がこちらに気付いたとしたら、どうすればいい?
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