絆の儀式

  高原の空から雨が降ることはあまりない。デイドが出発しようとした朝もまた晴天で朝焼けに染り、細く筋になった白い雲は仄かな薄紅色を帯びて遥か彼方に浮かんでいる。


 そんな空の白い雲のような白い肌に、くびれた腰まで真っ直ぐに伸びた美しい黒い髪の持ち主であるモーカは、その細い両の腕を青天に向かって掲げている。


 美しいまなこを閉じて、その小さな深紅の唇からは、聖霊せいれいに捧げる言葉を紡ぎ、その正面に乗馬したデイドの旅の無事を祈願をする。


 魔素を扱えない鬼人オーガが多いのなかで、高原に比肩するものも居ない優れたシャーマンであるモーカの加護は、デイドが旅立つ前に必ず行われる儀式であった。加護の魔法を掛け聖霊と父祖の霊に祈りを捧げる姿は、なにも知らない通りすがりの旅人でも居たら、美の女神様と言って拝みはじめてもおかしくない。


 大気の魔素を自在に操るモーカの姿はさながら女神のようであった。


 いくら優れた術者であるといってもモーカもこのような儀式を気軽に行えるわけではない。デイドは一度モーカから「星の位置と地脈点、さらに大気とマナの属性が一致して聖霊の加護を受ける時間帯の……云々……」と言う説明を受けたことがあったのだが、さっぱり解らず頭が痛くなったので、わからないものだと理解することにしたことはデイドの胸のうちにそっとしまわれていた。


 生粋の戦士であるデイドにとって魔法を理解することは難しかったのである。



 艷やかな鈴音のような声で、モーカは魔法名を唱える。


全体化風加護ホールオブウインドプロテクション


 澄んだ空気はモーカの発したマナを含んだ加護する風となり、百の騎兵達のもとへ吹き抜ける。デイドはそよ風のような心地よいその感覚に、「どんな困難があってもここへ必ず戻ってくるのだ」という決意を毎回、初志となんら変わらずにここで立てるのであった。

 一族でシャーマンはモーカ一人だけであり、祭司はモーカが務めるのだった。一同はモーカへの感謝の気持ちは彼らの顔を見れば明らかである。



 デイドは愛馬のツーチャに騎乗している。不動の鎧を着込み先日使者の来たときに羽織っていたマントや籠手は身につけず、実戦で使い慣れている普段の武具で身を固めていた。

 戦いに挑むわけではない。しかし何があるかわからための用心をしていたのだ。

 デイドの短く刈り込まれた赤髪がモーカのおこした風になびいていたが、じきに動かなくなる。モーカによる加護の付与がおわったのである。


 風の加護はマナの含まれた風の壁による守りとなる。術者の技量によりその強度が変わる。モーカの施した加護は、相手の力量にも依るが、普通の射手であるならば、50メートルほど離れたところから射掛けられた矢を一度は彈くことができる。さらに離れたところからであれば、何度かは防ぐことができるであろう。魔法に長けた種族ではない鬼人にとってはまさに大魔法である。



 遠方からくる死角からの攻撃や奇襲の一撃を防いでくれるのは大変心強いものであり、それがモーカから受け取ったものであることは、デイドの心に勇気を与えてくれる。


 デイドを首長とするアジータに属するものは皆乗馬が得意である。それはモーカたち女性であっても、小さな子どもたちであってもその例にもれることはない。

 必然的にワンユ族の本拠地に向かう男達は皆、騎馬兵であり、それはアジータ族の戦力のほとんど全てであった。



 兵站と言う概念はあまりデイド達は持ち合わせていなかったが、移動式の住居に女子供も乗馬して移動できるので、男たちが戦で出払ってもその場に留まるのではなく、そのまま移動して後方支援に動いてしまうことのほうが多かった。



 しかし今回はいくさというわけではなく、三日ほどの行程であるため、この美しいプリシー湖の畔から移動はしないことに決めたのであった。


 デイドはモーカに儀式のときは感謝の意を伝えないことにしている。デイドにとって魔法を使うことがどういうことなのかよく解らない。声に出して感謝を伝えることで、無理をして欲しくないという気持ちを悟られたくなかったからだ。


「モーカよ、留守を頼んだ」

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