ちょっと風呂入ってこい
「何だったんだ、こいつ……」
うつ伏せで倒れる毛玉、と言うかミノムシを見下ろしながら飛鳥がつぶやく。
気を失っているのか動く気配を微塵も感じさせない。
飛鳥は動かないと知ると今までの謎の声や物音も含めた鬱憤を晴らす思いで倒れているミノムシを反転させ、その顔を拝んでやろうと髪の毛をかき分ける。
飛鳥は絶句した。髪の毛を掻き終え、ミノムシではない本当の姿があらわになり、飛鳥は開いた口が塞がらなくなった。
目に映るのは少女、自分と同じくらいの年頃でその体は細くアスリートのように鍛えられているが、女性特有の丸みを帯び、触れるととても柔らかそうな肌感をしていた。どこか幼さを残しながら寝姿からでも感じる凛々しさに目を奪われてしまう。
その体はほぼ裸と言って良く、胸部に薄くボロい布を一枚巻いているだけであとは何も身につけていなかった。
だが、何日か風呂に入っていないのか体は薄汚れ、金色の髪にもまばらに土が付いていた。
なんで今まで気付かなかったのかと飛鳥は疑問に思ったが飛鳥はスマホを取り出し……。
「と、とりあえず警察に……」
と、110の数字を打ち込み発信ボタンを押す……直前で指が止まった。
飛鳥は今の状況をもう一度確認した。
全裸の気を失った少女。日本語ではない言語を用い意思疎通も図れず、身元も不明。
この状況をもし第三者、さらには警察にでも見られたりしたら……おそらく待っているのは拉致・監禁罪に加え全裸のその姿から強姦罪などのその他多数の罪を着せられてしまう可能性がある。
冤罪にもほどがあるが扉の向こうの空間がもとのリビングに戻っている今、無実を証明することも不可能であろう。
そして先ほどの見たことのない指先の光から、この国の、この地球上の人間でない事も想像でき、もしそうだとしたら永遠に身元を確認することが叶わず、このミノムシ少女のありもしない、知る由も無い事柄を延々と問われ続けられるかも知れない。せめてカツ丼は出してほしいものだ。
など、妄想に妄想を塗り重ねはするものの、誰にも相談することが出来ないこの状況、そして祖父の「自分の理解を超えた状況でこそ平静を保て」と言う言葉を思い出し、飛鳥はその興奮を嫌でも落ち着かせた。
飛鳥はスマホをしまいもう一度少女を見やると、どうしたものかとふっとため息をつく。あたりを見ると買い物袋を発見し、「冷蔵庫に食材を入れなければ」と思い出しそれを手に取るとキッチンへ向かう。
リビングに入る前に一応のつもりで床を足でちょんちょんつついてみたが、当然のことながら何も変わったところはなかった。
ささっと食材を冷蔵庫に入れ、一本入りの小さなアイスの箱を開ける。箱の中からビニールで包装されたアイスを取り出すと、そこには一本の棒と底に溜まる液体が確認でき、飛鳥はがっくりと肩を落とす。
「そういえば……なんか腹の音みたいなのなってたよな」
飛鳥は作業を進めながら呟いた。
あの金髪ミノムシ少女が倒れた後に聞こえた音。人間から腹の音以外であんな音を出すことはそうそうないだろうと思いながら、どうしたものかと考え込む。
少女が自分に対して明確な殺意を向けていたのかは不明だがあの指先から光るあの現象により、もしかしたらと最悪の状況を思い浮かべると思わず身震いをしてしまう。
しかし、このままだと何も変わらない。警察にも相談はできないし、本人との会話もできない。
飛鳥は「しょうがないな」と、口にすると頭をぽりぽり掻きながらキッチンのシンク下のキャビネットを開きレトルトのカレーを取り出す。
ものの五分でできたカレーは試験を終えてから何も食べてない飛鳥の鼻を刺激し、急激に空腹感を感じさせる。
「俺も飯まだだったか……。色々ありすぎて忘れてたわ」
念のため扉から顔だけを出し廊下に倒れる少女を確認する。反転させた時からピクリとも動いてない様子に飛鳥は安堵し、カレーを持って近付いた。
その少女の半径一メートルと言った所に近づくと、少女の目が一気に開かれる。顔は固定されたまま眼球だけがこちらを向いている。
そのあまりの有様に飛鳥は反射的に体を硬ばらせる。その瞬間少女は一気に起き上がりカレーめがけて飛びかかってきた。
飛鳥はカレーを持った手を高く上げ少女から離れた位置に持っていく。幸い飛鳥の身長はこの少女より十二、三センチ高く手を伸ばした程度では届かない。
少女は空腹のためか先ほど見せた跳躍が嘘かのように飛鳥に取り付きぴょんぴょんと飛び跳ねるが一向に届く気配はない。
ジャンプした際、少女の胸が飛鳥にあたりその可憐な相貌につい顔を赤らめる……ことは全くなく、飛鳥はその少女から発せられる異様な匂いに鼻が曲がりそうになる。
(くっさ!何日風呂入ってねーんだこいつは!)
少女を睨むと飛鳥は片手で少女を突き離そうと顔をグイグイと押す。
それにより少女は冷静さを取り戻したのか飛鳥の「待て」という片手を突き出された姿勢に従いながら、空腹により活性化された嗅覚が捉えたカレーの香りの間で頻繁に目線が揺れる。
飛鳥もこれ幸いと手を前に出したまま上空に掲げられたカレーをゆっくり、ゆっくりと少女の前に持ってくる。
カレーが近づくにつれ行き来していた目線が完全にカレーで固定されると一度、乞うように小さな口をへの字に曲げ、ウルウルとした目線でこちらをじっと見つめてくるその顔を見て飛鳥はようやく顔を染めた。
皿に添えてあったスプーンを少女に手渡し彼女に皿を手渡した。
さっきまで皿に執拗に手を伸ばしていたがそれが嘘のように、いざ皿を受け取ると遠慮がちにカレーと飛鳥の方を交互に目線を向ける。
(なんだか餌付けしてる気分になるな、これ……)
飛鳥はその様子に和みながらコクンと頷くと少女は掻き込むように口に運ぶ。
「おいおい……」
飛鳥は髪の毛がルーに付きそうになるのに気付くと食べるのを邪魔しないように髪を一つにまとめる。だがその毛量はヘアゴムで対処できる限界を超えていた。
あまりの毛量に驚きつつ香ばしい香りに顔が歪んでしまったが息を止め、その辺に放置されていたビニール紐でまとめた髪を結ぶ。
少女は視界がクリアになり一瞬食べるのをやめこちらを向いたがまたすぐに食べ始める。
カレーはすぐに無くなり皿に付いたルーまで余すことなく舐めとった。
飛鳥は臭いの気にならないところまで離れ、壁にもたれてスマホを触っていた。
食べ終わるのに気づき皿を受け取ろうと立ち上がるとその次の瞬間、飛鳥の顔に再び少女の人差し指が向けられる。一心不乱にカレーを食べるその姿に、飛鳥は不幸にも警戒心が緩んでしまっていたのだ。
「リ……ク」
向けられた人差し指に赤紫色の光が集まる。髪をまとめたおかげではっきりと見える少女の顔には軽く眉間にしわを寄せられ、今度こそ逃さないといった雰囲気を放つ。
「お、恩を仇で返しやがって!」
赤紫色の光を見ると反射的に目を瞑り叫んだ。
力一杯閉じられた瞼の淵に水滴ができる。
あぁ、俺はここで終わりなのかと、走馬灯のようなものが流れはするものの一向に飛鳥の意識が途絶えることはなかった。
頭の中に何か暖かいものが流れ込み、飛鳥はゆっくり目を開けると眼前には金色の少女が何事もなかったかように立っていた。
少女は飛鳥の顔を見るとただ一言。
「あ、あり、がと……」
と、たどたどしく言った。
言葉が通じる。この少女が日本語を話せるようになったわけではない。どういうわけか飛鳥が彼女の言葉を理解できた。聞くことができた。
この謎の現象に驚きつつ、反応のない飛鳥に不安がる様子を見せる少女のためにもまずは返事を返そうと思う。
するとどうしてだろうか。彼女の話していた言葉が理解できる。話すことができる。飛鳥は言語名もわからない言葉で返事をする。
「気にしなくていいよ、誰だってお腹は、減るからね。……皿、預かるよ」
「……ん」
お互いどぎまぎしながら答えると、飛鳥は「とりあえず」と、付け加え、びくっと体を震わす少女に言った。
「風呂入ってもらっていい?」
少女はキョトンとし、飛鳥の表情から他に選択肢がないことを悟ったのか首を縦に振るのだった。
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