第一章 出会い、そして脱出

扉の向こう側

 強い日差しが照りつける中、前期の講義、そして試験すべてを終えた生徒たちが翌日から始まる夏季休業の話で盛り上がっていた。海や山、海外旅行、誰が車を出せるかとか、所持金はいくらだとかなんの計画性もなしに口々に言い合った。大学に入ってからの初の長期休業ということでみんな舞い上がっているのだ。


 だがそんな計画性のない話はすぐに終わり、今は「この後、学部のみんなでご飯でも食べに行かないか」という話に変わっていた。


「ねえ。飛鳥くんはこの後ご飯行く?」

「……えっ?あーごめん。今日この後すぐ実家に帰ることになっててさ」


 飛鳥と呼ばれた青年はいきなり呼ばれたことに少し戸惑いながら答えた。

 笹畠飛鳥ささはたあすか。その名前から女性だと思われがちだがれっきとした男である。黒い髪は軽い癖っ毛で緩やかなウェーブを描き、前髪が僅かに目にかかっている。そしてその髪の向こうからは日本人離れした瑠璃色の目が覗いていた。


 飛鳥は申し訳なさそうに後頭部を掻く。


「また次の機会にでも誘ってよ」

「えー残念だなぁ。まぁ実家に帰るならしょうがないか。私も一度でいいから帰って来いってお父さんがうるさいし。……じゃあまた集まることがあったら連絡するね! 無視したらダメだよ!」


 その女性は人差し指を立て見上げるように飛鳥に近づいた。


「……わ、分かったらから離れて。近いから……」


 そう言うと、「ごめん」と謝りながら若干恥ずかしげに離れるその姿に恥ずかしながら萌えてしまった。


 他のメンバーが移動を始めたのを見たその女の子は、改めて飛鳥にメールの有無を確認すると手を振りながら去っていった。


 その後ろ姿を当たり障りのない笑顔で手を振り返し、帰路につくため振り返る。しかしそこにはさっきまで笑顔で手を振っていた少年の顔はなかった。


「……めんどくさ」


 そう呟き、足を進める飛鳥のその無表情な顔とは裏腹に、その目は太陽の光を浴び明るい青色を醸し出していた。




 —————




 徒歩や電車を利用し途中大量の食料を購入した飛鳥は、約一時間半の時間をかけ梅田にある一人暮らしをしているマンションに着く。

 そのマンションは最高で三十二階までありその七◯三号室、それが飛鳥の住む部屋である。そのマンションは築六年、部屋は三LDK、南向きでバルコニーもある。共用エントランスにはオートロックがあり防犯も完璧である。最寄駅は徒歩五分でコンビニや業務用スーパーもあり、それが家賃五万(管理費は別途)で借りることができたのだ。


 もちろん大阪の中心部である梅田に立つマンションが五万で住めるのには訳がある。それは至極単純な理由。そう、訳あり物件である。


 大家さんが言うにはなんでも四年前から原因不明の声が昼夜問わず聞こえてきたそうだ。その声が聞いたこともないような言語——もはや言語と呼んでいいかどうかすらあやふやだが——でぶつぶつと呟き声が聞こえてきたり、足音や物が崩れるような音が引っ切り無しに聞こえていたという。


その心霊現象に対し大家さんは神社に、お祓いを依頼をしたらしいのだが神主さんが言うには……、

『私には理由が全くわかりません。少なくとも霊やその類と関係があるものではありません』

 とのことらしい。

そして、大家さんは泣く泣く家賃を下げる羽目になったのだ。


 飛鳥はエントランスにあるパネルにカードキーを通し、四機あるエレベーターのうちの一番奥の扉の前で大量に購入した食品が入ったエコバッグを、肩に担ぐように持ち替える。


 エレベーターに乗り自分の部屋の鍵を開け両手が塞がっていたので肘を使い玄関を開ける。


 飛鳥は靴を脱ぎ廊下を少し歩いてすぐ、なんとも言葉にしがたい異質な気配を感じ、足を止めた。


「なんだ……なんか、やけに涼しくないか?」


 季節は夏、七月中旬の、ましてやそろそろ午後二時を迎えようとしているこの時間に、まるで洞窟の中にいるかのようなそんな感覚に襲われた。


 そして同時にこの部屋が曰く付きの部屋であることを思い出す。

 正直なところ飛鳥は以前に大家から聞かされていた、謎の声や物音を何度か聞いたことがあった。最初の頃はそれはもう背筋が凍るような思いでいたが、それも数を重ね声や物音が聞こえるだけで実害が全くないことに気付くと、ヘッドフォンを付けることでその場はやり過ごすことができるようになった。


 だが、今回は明らかに状況が違う。リビングに繋がる扉にはフロントガラスが取り付けられている。本来、日中の間、南向きに位置するリビングは一日のうち最も明るくなる時間でありながら、そのガラスの奥からは陽の気配が全く感じられない。


「……今朝は、カーテン開けた、よな……」


 飛鳥は意を決し、ドアノブに手をかけ僅かに扉を開けるとその隙間から奥を覗いた。


 まず真っ先に目に入ったのは暗闇。カーテンを閉めているかどうかなんてそんなレベルではない。陽の光など皆無な空間で、ただただひんやりとした空気が漂っていた。

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