#2:太陽と月
私が呼ぶと、グラスを磨いていたマスターが目を向ける。
「あの時。この店に私が初めて来た時のこと、覚えていますか」
「そりゃあ、忘れられませんよ。いきなり倒れられたんですから」
「う、ごめんなさい」
「いいえ。それから陽奈さんも常連になってくれましたからね。あれから滅多にショットガンはしませんけど」
「一人飲みの時には、ちょっと」
「はは。賢明です」
にこやかな声だった。笑っている時、マスターの低いバス・ボイスは少しだけ掠れる。それに気付いたのは、彼女に連れられてこの店を訪れた二回目の時だった。
その懐かしい響きが、記憶を鮮やかに蘇らせる。カクテルに混ぜた彼女の姿はもう、ほとんど完全に、私の思い出の中で輝きを取り戻していた。
「陽奈さんは、瑞月さん以上に分かりやすい」
「え」
「お酒を儀式みたいにして飲むでしょう。飲み方は人それぞれですから、私が口を出すことではないですが。少なくとも、お酒は嗜好品ですよ。楽しむものです」
「そう、ですね」
「楽しいお酒の味を知らないことはないでしょう。瑞月さんと一緒に、そのカウンターでお酒を飲む陽奈さんは楽しそうでしたよ」
マスターの言葉が、耳を通り越して、何かもっと深いところまで這入り込んでくる。目を逸らす私に、マスターはまた、喉の奥で小さく咳をした。
「昔、言われたことがあるんです。客の話を聞くことは、酒をつくることよりもお前の仕事だ、と」
「誰にですか」
「瑞月さんのお父様です。自信満々で、彼女とは大違いだ」
「お知り合いなんですか」
「ええ。ですが、やはり美味しいお酒を楽しんでもらうのが僕の仕事なんです。さっきの一杯は失敗作だ。だって、美味しくなかったでしょ」
血管の浮き出たマスターの手が、空になったグラスを持ち去る。代わりに置かれたジブラルタル・グラスは水で満たされていた。一つだけ浮かんだ大きな氷がゆっくりと回っている。あの夜と同じだ。
「お話、聞かせていただけませんか」
私は、グラスに伝う水滴を眺めていた。拭うことなく、ただそれがテーブルを濡らす姿に魅いられていた。
重力に囚われた水滴が、氷と出会うことはない。二人を隔てるガラスはあまりにも厚かった。透明で、目に見える距離にいながら。まるで悲劇だ。息絶えたロミオとジュリエットの二人でさえ、互いに触れ合っていたのに。触れ合う、というのはこれ以上近づくことができない距離だと何かの小説で読んだ。それでも、触れられないというどうしようもないことよりは満たされている。満たされている、ということもまた、それ以上がない状態だと思った。
鼓膜には届かぬ小さな音。崩れる水滴の静かな断末魔。それを合図にして、私は重い口を開いた。
「ねぇ。聞いて、陽奈」
晩夏。長いようで、終わってみれば何のことはない休み明けのモードカレッジは、にわかに忙しさをそのキャンパス中から発していた。
カフェテリアでファッション雑誌をスクラップしていた私に、彼女が駆け寄って来たのは、そんな夏の暑さが中途半端に取り残されたような晴れた日だった。
「なあに。瑞月」
あの夜、私は気付いたら自室のベッドに横たわっていた。目と鼻の先にあった彼女の寝顔は私の脳裏に深く刻み込まれている。それから私たちはトモダチになった。お昼を一緒に食べ、学校を出て、レミントンで共にお酒を飲んだ夜には、二人私のベッドで眠りについた。彼女の腰にホクロがあること、鎖骨を触られるのを嫌うこと、下唇を噛むくせがあることを私は知っている。
彼女との親交が始まってからしばらくは壮絶なものだった。太陽を真横にして過ごすわけだから当然といえば当然なのだが、なにせ私は注目されることに慣れていない。彼女に向けられる羨望、欲望、その他諸々を孕んだ視線。その光線が奇異に染まり私を見るのだ。その間にも、彼女は舞うように私のそばに居たがった。
「ファッション・ショーだよ。私、ランウェイのファイナル・モデルに選ばれたの」
彼女は本当に嬉しそうな笑顔を咲かせた。私の手をぎゅっと握ろうとした彼女を制し、持っていたハサミを筆箱の中にしまう。
もちろん、それは教えられるまでもないことだった。それなりに多くの学生がいるこの学校で、唯一そうと信じていなかったのが彼女本人だ。
それが彼女だ。
「陽奈がいてくれたからだよ。ありがとう」
ここ数か月を彼女と過ごす内に分かったことがある。彼女は、自分の持つ美しさを自覚こそしているものの、それを自信とは思っていない。その美しさを、輝きを、自身によるものだとは微塵も思っていないのだ。
私は昨晩彼女にしたように、その小さな頭を軽く撫でた。柔らかな髪が指をくすぐる。彼女は気持ちよさそうに目を細めて、またクスクス笑ってみせた。
「良かったね。私も頑張らなきゃ」
モデルコースからファッション・モデルが選抜されるように、服飾デザインコースでもドレス・デザインのコンペティションが行われる。コンペに出されたデザインは実際にドレスになり、それをモデルコースの人間が着てランウェイを歩くという寸法だ。更に、その中で最も優れているとされたデザインが、一番の注目の的であるファイナル・モデルの着るドレスになる。
そして私もまた、彼女との約束を守るためにそのコンペに向けて鋭意デザイン中というわけだ。
「陽奈の方はどう、順調なの」
「自分では良い感じだと思っているんだけど」
「ねぇ、ちょっと見せてよ」
「駄目」
「むぅ。陽奈のケチ」
「見たら面白くないでしょ。大丈夫だから、瑞月は本番まで体調管理」
「はーい。ねぇねぇ、じゃあ、今晩泊まっても良い。それくらいなら良いでしょ」
「昨日も泊まったじゃない」
「今日は、あんまりお酒を飲まないようにするから」
「まあ、私より瑞月の方がお酒強いけどね」
口では言いつつも、私は彼女を歓迎した。今では彼女が私の部屋にいない夜の方が少ない。変哲のないワンルームに、彼女の匂いが混じる感覚。もうずっと、色づくという言葉の意味を忘れていたことに気がつく。
身体を重ねた夜が、何度もあった。いつも始まりは酩酊。白い肌と吐息に目が醒めて、しかし互いに理性は捨てて。その夜に交わした彼女とのキスは、いつもよりアルコールの味が薄かった。
「ねえ、陽奈」
肩を上下させながら私の名前を呼ぶ彼女の姿は消え入りそうだった。名に恥じぬかたち。夜月の、静謐に満ちた瑞々しい美しさを柔肌にまとっている。私は瑞月から指を離し、その隣に横たわった
「なあに」
「どうして拒まないの」
ポツリと。夜を染めるフクロウの歌だけが聞こえる暗い寝室に、彼女の声が落ちた。
「嫌じゃないから。私、男の子を好きになったことがないの」
笑いを含ませてそう言うと、聞こえてきた小さく鼻をすする音で、彼女の泣き顔が脳裏に浮かぶ。首を回してみても、目に映るのは彼女の黒髪と、浮き出た肩甲骨、タオルケット。
「瑞月は男の子を好きになったこと、ある」
「あるよ。でも、彼女がいたこともある。私は性別じゃなくて、個性で人を好きになるみたい」
「すてきだね」
「そんなに良いものじゃないよ。だって、それは人の常じゃないもん。どうしても、どうしようもなく、少数派」
「……私のこと、好き」
「どうかな」
彼女が寝返りを打つ。目のあたりが少し赤らんでいた。乱れたシーツの波を一つ一つ崩しながら、彼女は私の唇を短く、しかし強く吸った。
「って言ったら、私を嫌いになるの」
短く首を振って応えると、頭のどこかで、彼女の言葉が流れた。
月は自分で光っているわけじゃない。太陽がいなければ、誰に見向きもされない。
「ならない。私たちは、似ているけど違うって、瑞月の言ったこと。何となく、本当に何となくだけど、分かる気がする」
「そう。ねえ、陽奈。私さっき、ちょっとだけ嘘を吐いた」
目だけで、彼女を見る。
「私はね、人を好きになるんじゃないの。みんな嫌い。その中で、たまにいる、私の太陽になってくれる人が嫌いじゃなくなるの。だってその人から嫌われたら、私は輝けなくなってしまうもの」
「何を言っているの」
「すごく、私はすごくズルイと思う。でも仕方ないじゃない。私のことを見てくれない人なんて、嫌いになって何が悪いの。みんな、私を見ているんじゃないの。私が輝いているんじゃないの。全部、ぜんぶ、ゼンブ、私の後ろにいる、パパやママの光よ。きっと私が姫野じゃなかったら、私はいなくなってしまうわ」
彼女は手で顔を覆い、漏れ出そうとする声を唇で噛み殺していた。輝く光は失われていた。彼女の手の届く範囲に居ながら、何もできない自分がひどくみじめだった。
「陽奈。私の、太陽になって」
胸がしめつけられるような言葉。それは、時折彼女が見せる恐ろしい影そのものに違いなかった。
私は、今にも壊れてしまいそうな彼女の白く柔い肌を抱き締めて、彼女の名を呼んだ。瑞月。名前で呼ぶ、ただそれだけのことが、彼女にとってどれだけの安堵を生んだのだろう。私の指が乱れた黒髪を梳く。その度に、彼女は嗚咽を漏らした。その涙の温度が肌を通して染み入る感覚に、私はある決意を胸に抱いた。
「ごめん。シャワー、借りるね」
ベッドが彼女一人分の重みから解放されて少しだけ軋む。シーツの上に落ちていた、彼女の長い髪の毛をそっとつまみあげた。かすかに、静かな匂いがした。
「瑞月が私を太陽だというなら、私はそれに応える。だから私の月になって。私が輝かせてみせるから」
シャワーを終えた彼女に投げかける、約束の形にした決意。彼女は、髪を拭くタオルの隙間から笑んで見せた。沁み込むような静かな笑みだった。雫のような光を感じた。
「私、今日はもう寝るわ。陽奈はどうする」
「もう少しデザインしようかな。締め切りも近いし」
「そう。じゃあ、コーヒーでも淹れるね」
「濃いやつをお願い」
「シュガー・スティックは一つ、ミルクは無しね」
「うん。さすが、よく分かってる」
その言葉通り、彼女は私の好みにピッタリ合ったコーヒーを淹れてくれた。そうして、彼女はちょうど私が忍び込めるスペースを空けて寝息を立て始めた。母の胸の中で眠りにつく赤ん坊のような、安らかな平和に満ちた表情を浮かべて。
彼女が淹れてくれたコーヒーを飲み干して、私は、彼女のためだけの、私だけの光を創り上げた。カーテンの隙間から差し込む朝日が、彼女の長いまつ毛を照らしているのを眺めながら。
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