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第43話「ユメカミ」より


視界に映るのはだいたい黒いものばかりだ。ひとの顔なんてまともに見れやしない。薄いフィルターをかけられたような視野に、自分は酷く安堵を覚える。

自分がということはということだ。

時折揺れる隙間からちらりと覗く世界は酷く眩しくて綺麗で、とても恐ろしい。

目の前に立つ豊満な胸を持つ女性―ホシ・ソウの、その白い肌にじわりと胸のなかで何かが燻ったような気がしたけれど、気のせいだと思いなおす。

アキミアの婚約者だというその女性は、どこからどう見てもなんともらしい。柔らかな曲線を描く身体のライン、くるりとした瞳、ふわふわとなびく髪。どこをどう見ても女性だ。自分にはないものばかりで、苦しくなるような気がして、強い言葉で拒絶した。


先に攻撃をするのはこれ以上近くに居て欲しくないからだ。それは物理的な距離だとか心理的なものだとかそういうことも全て含んで、【近く】なりたくはない。

残念だとか哀しいだとかそういうことはもう忘れてしまったが、生まれてから一度も肯定されたことがなかった。今の立場でさえも、だ。嗚呼そうだ。

自分はなのだと思い知らされるからだ。


自分にはないものを持っている人間が羨ましい。本当は強い人間になりたかった。ただ生きて呼吸して存在しているだけで赦される人間になりたかった。此処に居ていいんだと言われてみたかった。殴られて蹴られて酷い言葉でなじられて、「汚い」「臭い」と言われるたびにどうして自分はなんだと自分で自分を呪った。

護ってくれるものなんてひとつもなくて苦しくて痛くて泣いても殴られる衝撃はちっとも優しくなんてならなかった。

いじめなんて生易しい言葉じゃ表しきれないことをされた。ただでさえ『きれい』ではない皮膚は歪に変色して引き攣れた。まともに食べ物を食べることすらできなくなって、口に入れた瞬間に反射的に嘔吐してしまう。胃酸で溶けた歯が、更に奥の神経までもがじくじくと痛みを脳髄に伝えてきて、まともに眠ることだってできなくなった。痛くて怖くてたまらなくて、それでも現実はまったく変わらなくて。結局は殴られ蹴られ罵声を浴びる日々だった。


今は違う。

そう、今は違うのだ。自分は大統領秘書になった。あの頃とは違う。


けれど、羨ましい。


願ってやまなかった彼女ホシ・ソウが。

自分にはない美しさを持った彼女ホシ・ソウが。


羨ましくて憎らしくて。


そして、


……だから、隠してしまわなければ。綺麗じゃない自分を見せてしまえばまた拒絶される。傷付けて傷付けて非難して批判して拒否して自分から遠ざけなければ。


「私、人を殺したことがあるの」


殺人という罪を犯した罪人だと吐露すれば、通常の人間なら本能的に恐怖を覚える。倫理観の高い看護師ならなおさらだろう。

人間は「理解できないモノ」には酷く冷酷だから。





「私が貴女を好きになるので貴女は楽になれます」





触れた口唇の、その柔らかさ。その滑らかさに、思考が止まった。

……大丈夫、顔は髪で隠れている。背を向けてしまえば表情なんて見える筈もない。

足音が遠ざかる。

耳の奥で鳴る鼓動がどくりどくりと五月蠅い。手が、指が、足が、身体が震えている。冷静にパニックに落ちていくような、ついうっかり底のない深い深い穴に落ちてしまったかのような、自分が立っているのか座っているのかすら解らない。



ガタガタと震える指を無視してそう言い聞かせる。大丈夫。弱くて醜いユメカミは死んだのだ。あの時、血にまみれて死んだ。今の自分は違う。

大統領にもらった石鹸で身体を洗っている。大統領にもらった服を着ている。大統領の勧める美容室にも行っている。大統領秘書という殻で覆われている。大丈夫。


隠さなければ。

隠して、隠して、覆い隠さなければ。

視えないように。気付かれないように。


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