昨日の貴方に恋をして、今日の貴方に絶望する
第14話「恋」より
涙が止まらない。ガンガンと頭が痛んで、鼻も眼も熱い。どくんどくんと耳元で音が鳴っていて、その音が耐えようもなく不快に感じた。身体の奥深くからなにか熱のようなものがこみ上げてきて、それでもそれを何処にも逃がせない。吐き出せる場所がない。苦しい。
子供のようだと思った。護るべき対象のように感じた。生命の危機を救ってもらって、その腕に抱かれた。
男性経験が皆無な自分にとってみれば刺激的なんてものじゃなかった。吐息のかかるほど顔を近づけるなんて姉弟であってもなかった。所謂ガールズトークのなかでひそやかに囁かれる秘め事の話なら多少は耳にしたことがある。けれど、想像と現実は違う。
質感と熱、その生々しいまでの皮膚の感触。どきどきと高鳴る鼓動、乱されていく思考。
確かに此処には絶望しかないのに。
眠りに就いて次に眼が醒めるかどうかすら確信が持てない絶対的な状況で、信じられるのは触れている肌の熱さ、それらがもたらす痛みと快感だけだった。
それなのに!
自分は変わった。否、変えられてしまった。
ほんの数時間前までの自分とは決定的に違う。
自分はもう人間じゃない。
その残酷なまでの事実を、よりによってこの「ひと」に。
これは恋ではない。恋などであろうはずがない。だって私は彼が憎い。
憎くて憎くてたまらない。……はずなのに。
あの黒い瞳に見つめられるだけでどくりと心臓が跳ねる。自然と熱が顔に集まる。汗が出て、そわそわと落ち着かなくなる。
裏切られたのに。
例えば彼が―素直に「自分はヴィエドゴニャだ」と告げてくれていたら?
「害獣化した自分に喰われるかもしれない」と告げてくれていたら?
彼の言う「結婚」することで自分も保菌者になるということを告げてくれていたら?
自分は弟と自分を天秤にかけて、それでも弟をとるだろうか。
大切な弟だ。生まれた時から―たとえヴィエドゴニャであっても―大切に大切に慈しんできた。
物心ついた頃には既に、「弟は護るもの」だといわれてきた。弟が死ぬまで、面倒をみるものだと思っていた。
その価値観すべてを壊された。それも手酷い手段で。
……どうせなら嘘を吐き続けてくれたら良かったのに。
その「嘘」を信じて死ねるならそれでも良かったのに。
苦しい。苦しくてたまらない。
だから、酷い言葉でなじった。言葉に刃があるならばそれで彼を切り裂いた。それほどまでに一方的で強い言葉だった。
その言葉で彼が傷付いて、激高して、それで彼に殺されるならそれでも良かった。
傷付けられるならそれでも良かった。
苦しくて辛くて哀しくて、どれが本当の感情なのかももう解らない。ただ、奔る感情のままに言葉を放った。
彼は、目の前のケモノは、酷く歪に嗤った。
その笑みが、その瞳に浮かぶナニカが。
例えば、地獄に降りてきた蜘蛛の糸に縋る罪人のような。
例えば、慈悲に縋る子供のような。
酷く歪で、酷く純粋なナニカがうごめいているようで、すぅ、と自分の身体から熱が引いたのを自覚した。
既視感があった。
「死にたがる患者」というものは一定数いる。それは精神を病んだものであったり、戦場から帰ってきても仲間を救えなかったという自責の念からそう思い込んでいたり、「死こそが救い」であると心から信じている患者を何人もソウは看てきた。
それを指摘する自分が何の感情も抱かないことに驚いていた。
凪いだ湖面のように静かな気分だった。目の前のケモノが、恐ろしい形相をしているのは変わらないのに。
……嫌いなはずなのに。憎い、はずなのに。
自然と手が伸びた。触れたくなった。
自分が見ているものは果たしてバケモノなのかヒトなのか、確かめてみたくもあった。
もう、涙は止まっていた。
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