コンテスト参加作品

紫乃緒

月のない夜

第30話幸せの真似事より


遠くで潮騒が聴こえる。遠く近く寄せては返す。一定のリズムで響いてくるそれは鼓動にも似ていて。


「……狡い」


自嘲と共に呟かれた声すらも消えてしまいそうなほど小さく。

隙間ないほど肌は密着しているのに、どこまでも遠くにいると錯覚するような。

彼女―ホシ・ソウは抱き着かれた体勢のまま頬を厚い胸板にすり寄せた。硬い。男性特有の少しだけざらついた肌。引き攣れたような傷痕が無数にある筋肉質の、おとこの身体。硬い背中をそっと撫でて。寝息を立てるその鼻や口唇や閉じられたままの瞳や直線的な頬の輪郭をゆるりと見上げた。

彼ーアキミア・ツキヒコの寝顔。レアと言えばレアなのかもしれない。

駆除兵のなかでも指折りの実力で、軍のなかでもその実力は抜きんでている。それを間近で実際に見たことがある人間としては―寝顔はあどけないのに、とか、幼い、とか、額の傷痕が痛々しいとか、そんな風に思ってしまうのも少しだけ気が引けるような気がして。

一生のうちのたった何日かしか共に過ごしていない。それも最初は騙し討ちのようなものだった。世間一般的に見ればかなり酷いことをされた自覚もある。それでもあの切羽詰まった状況で頼れるのも信じられるのもアキミアしか居なかった。

人生というものに行き止まりというものがあるのならば、あの大樹のうろで感じたものがそれなのだろう。

ソウは眼を閉じた。アキミアの薄い口唇を見ているとそれに触れたいような、触れてはいけないような、感じたことのない感覚に襲われる。


だけ』


みっともなく伏せて吐き出された言葉が思い出される。はつまり、『なりたいけれどなれなかった』という後悔のように聴こえた。

何かをひどく恐れているのだということはなんとなく気付いていた。こうやって肌を合わせ共に快楽の海に沈んでも、どこか遠くに感じてしまうのはそれが理由なのかもしれない。

楽しい時間だった。

準備していた時も、準備する前も、一緒に電車に乗って移動する、ただそれだけでも。喜んでくれるだろうかと想像するだけで楽しかった。

嘘だと解っている。は単なる戯れ、一時の幻なのだと。

それでも楽しかった。

落ち込んでいることは解っていたし、ああいう言い方をすれば彼が乗ってきてくれることも想像できていた。

だからこそその落ち込む理由も知ってみたかった。アキミアの部分に触れてみたかった。


海に沈む夕焼けの、その赤に染まる彼の沈痛な表情が目に浮かぶ。諦めにも似た表情だった。

『怖かった時のことは話せない』

確かにそうだ。話すことでその時のことを嫌でも思い出してしまう。きっかけは些細なことであっても記憶というものは不思議なもので、ひとつ思い出してしまえばまたひとつ、またひとつと次々に芋づる式に思い出してしまう。それは恐怖の再来であり、絶望への入り口に他ならない。

知識としては知っている。

「恐怖で色素が抜ける」ということ。彼が口を噤む過去に、彼の髪から色を奪っていった【恐怖】があるのかもしれない。


抱き着いている腕に力を込める。息が止まるほど強く、強く。

ことを実感したくて、ちゃんと此処に居るのだということを信じたくて。

つん、と鼻の奥が鈍く痛んだ。じわりと涙が浮いてきそうになって、更にきつく力を込める。

溶けあえたらいいのに、と思った。

そんなことが出来ないことくらい解っている。側の自分は、彼を包み込むことは出来ても溶かすことなど出来はしないしそもそも人間は融けない。

……解っているのに。


「……泣いているんですか」


抱きしめている頭上から声が落ちてくる。

驚いて身体を離そうとして、阻まれた。

逃がさないとばかりに腰と背中をしっかりと抱き寄せられる。足も絡められて、動けない。


「起きてたんですか!」


何とか顔だけ動かして責めるように言葉を放つ。


「起きたというか、起きてしまったというか、」


苦笑する気配に、自嘲の色が滲む。


「眠るのは夢を見てしまいそうだから」


だから、元々眠りは浅いんですよ、と。

諭すような柔らかな口調で言われる。


「でも、ソウさんが居てくれたから」


硬い掌が背中を撫でる。


「大丈夫です」


見上げる先に、あどけない笑み。

灯りを落とした薄暗い部屋でも見えてしまうその笑みに、また涙が出そうだったから。


「怖い夢を見ないように、手をつないでください」


手をまわして、彼の腕を掴む。花の公園では握り返してくれなかった大きな手。

その手がゆっくりと自分の手を握り返してくれる。

祈るように、絡めるように握られた手。


このまま夜が明けないと良いのに。

そんなことを祈った。


こんな場所で祈ることでもない。

祈ったところで神様は居ない。

縋るだけの神様なんて居なかった。

残酷で残忍で、卑怯で、どう見ても善人ではないアキミアしか、救ってはくれなかった。


これは恋ではない。恋であってはならない。甘く蕩けるようなものなんてなかった。絶望と暗闇と痛みしかなかったはずだった。

毒薬でもいい、いずれ己を蝕み朽ち果てると解っているけれど。

アキミアのそばは、こんなにも心地よい。


嗚呼。

こんなに昏くては、月も視えない。






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