天命を攫む

 王からの言質を取った後、尚豊は夜が明けるのを待たずに翁寄松の元へと先触れを出した。

 本来こんな時間に面会を求めるなど、無礼にも程がある。身分としては尚豊のが上であるが、決して軽んじてよい相手ではない。

 だが、蒼志は聞得大君が薨去する時期に、と言っていた。

 謝名利山が動き出すまでにもはや時間はない。

 ジリジリと使者の戻りを待っていると、紅琳がいつも以上にゆったりと茶を卓に置いた。

「落ち着かれませ。気が急いてもよいことはございませんよ」

 それでなくとも、尚豊は眠っていないのだ。疲労は小さな間違いを誘発する。

 三司官は首里城下にそれぞれ邸宅を持っている。本来であれば王世子である尚豊も城下の中城御殿なかぐすくうどぅんに居住するのが本来である。

 首里について間もないが故、今は城内の二階御殿にーけーうどぅんを間借りしている状態だ。

 さっさと居を移しておけばよかったと、尚豊は後悔した。城内にいさえしなければ、もっと気軽に動けたものを。

 扉が開くのを身じろぐこともなくじっと待つ尚豊を見て、紅琳が呆れたように首を振った。

 彼女も、尚豊に付き合って徹夜である。

 だが、そんなことも気付かないくらいに、急いていた。

「…今この瞬間には、半刻も一刻も変わりますまい。お茶をお飲みなさいませ」

 紅琳の言葉にも、尚豊は動かない。

 静かに、静かに、じっと扉だけを見る。

 結局、翁寄松からの半刻後のことだった。

 使者が戻ってきて、すぐに応じるとの書簡を得ると、尚豊はすぐに動き出す。

 二階御殿から一番近い美福門、世継門を経て場外へ出ると、己の足で走り出す。

 後ろからついていくのは紅琳と、2人の護衛のみ。

 馬を駆れば音が響く。輿を使うには人を起こさねばならない。

 王世子という肩書では考えられないが、彼は構うことなく己の足で走り出した。

 なるべく音を立てないよう、護衛の武具の音も極力立たないよう極限まで軽装で。

 誰も口を開くことなく、翁寄松の邸宅まで走る。

 辿り着いた邸宅では、迎えの者が門前で唖然と彼らを迎えた。

城間親方ぐすくまうぇーかたに取次ぎを。佐敷王子が参ったと伝えろ」

 肩で息をしながら、荒い息を整えぬまま彼は告げる。

 その名に使用人は慌てふためいて、1人は邸内に走り、そしてもう1人は尚豊を案内するために頭を下げた。

 ほどなく、尚豊と紅琳は城間親方邸の貴賓室で翁寄松と対面する。

 護衛は詰所にて体を休めていることだろう。

「いくら年寄りとて、夜明け前には寝ておりますぞ」

 呵呵と、笑う。だが、その目は笑っていない。

 漸う息が整った尚豊は、言葉を飾ることなく。

「王より、対大和に関する全ての権限移譲の言質を取りました」

 切り込んだ。

 翁寄松の顔の笑みが、深まる。

「勅令として書面には、これからしてもらいます。が、王と摂政よりその言質は取りました」

 背筋を伸ばす。

 目の前にいるのは、好々爺ではない。優しいだけの老爺ではない。

 自分よりも余程強い妖怪だ。

謝名親方じゃなうぇーかたの動向はご存じか」

 見据える。

 腹芸はできない。回りくどいことをしている時間は、もはや残されていない。

 謝名利山がどれほどの時間をかけて根回ししているのかわからない。完全に、尚豊は出遅れている。

 ふと、翁寄松が目を細めて。

「謝名の小僧がこの年寄りを隠居させようとしているのは、存じておりますぞ」

 笑みが深まる。

「あの小僧は、わしから士族の肩書も奪うつもりのようで、色々と彩り豊かに無い事無い事、取り揃えておるようですな」

「王はそれを、何もせずに受け取るでしょう」

「でしょうな。あの王に、謝名の小僧を退けるだけの力はありますまい」

 尚豊の頭に、また血が上る。

 わかっていて、この爺は。

「朝昌様」

 ぞわりと、背が粟立つ。それを、細い、涼やかな声が抑えた。

 翁寄松の笑みが更に深まる。

 初めてその視線が、尚豊の後ろ。紅琳に向けられて。

 重い、鋭い、刃のような視線だ。

 だが、向けられた紅琳は静かにその視線を受ける。

 怖気づくでもなく、気負うでもなく。ただ、自然に。

「面白い女を持っておいでだな、佐敷王子さしきおうじ

 顎を撫でながら、翁寄松はくつくつと喉の奥で笑う。

 応じるように、紅琳は目礼を返して。

「王が疎んじているのは、三司官の責めが大きい。悪し様にいうのは、不敬でしょう」

 翁寄松は、謝名利山を小僧と呼びながら、戦うことはしない。それが、先程の答えである。

 王に戦う意思がないなら何もしない。気概のない王を支えることはないと。

 だが、それはお門違いというものだ。

 たった20年程度しか生きていない、若い王を支えなかったのは、お前達だと言外に非難して、尚豊は。

「舞台を降りるならそれでいい。ただ、置き土産をしていただきたい」

「ほう?」

「大和に近しい者を紹介してもらいたい」

「…佐敷王子は琉球を大和に明け渡すおつもりか?」

 実に楽しそうに言う、年寄りに。

「降りる者に応える必要性を感じない」

「無駄骨を使いたくない年寄りのわがままも聞けぬか?」

 ぞんざいに答えれば、翁寄松の答えも表面上の敬意が消える。

 見据える表情から、笑みが消えた。

 尚豊は、一つ、息をいて。

 笑みの消えた、老獪を見据えて。

「王族の首は、1つで万の民の命を賄う。王座とは民がおらねば価値はない。最優先は民を死なせない事だ」

 大和は琉球という国は存続させるだろう。琉球を大和が吞み込めば、明との交易が途絶える。

 明に属国として認められ、交易をしているのは琉球であって大和ではない。そして、大和は明に臣従も属国もしない。

 対等な交易をするには、琉球を間に挟む必要がある。

「琉球は明と大和の二国から属国として扱われる。その負担は民に行く。我々は、その負担を極力小さくする必要がある」

 そのためにこの首が有効ならばいくらでも差し出す。

 だが、その前にやれる事をやる必要がある。

「大和との交渉ができる人物、もしくはその助言をしてくれる人物が必要だ。我々は、大和を知らなすぎる。…特に、島津の後ろにいる、今の大和の支配者の」

 敵を知らねば、対策など立てられない。

 尚豊の前で、翁寄松は初めて、本当に笑った。

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