永訣
翌朝、尚豊はまだ日の開けきらないうちに褥を出た。
身支度を整えて、御殿の庭を歩く。
大庭の、主殿に向かうように、座す。
開けきらない朝の空気は、とても澄んでいて。
決して寒い訳ではないが、冷えた清浄な空気が肺を満たす。
尚豊は、目蓋を閉じて音に耳を傾けた。
遠く、海の音。
空を風が行く音。
御殿の中では下女達が朝食の準備を始めている。
木々の葉が擦れる音。
小さく聞こえる人々の挨拶。
赤子の泣き声。
徐々に明るく、日の登り始めたその場所で、尚豊はひたすら音を聞いた。
忘れるな、この音を。
父が、母が、この金武の民が、生きている証を。
ざあと、一際強い風が吹き、木々が揺らめいた。
すっかり日が上りきった所で、尚豊はゆっくりと目蓋を開ける。
空を見上げると、雲ひとつない蒼穹が。
ぼやけた視界を意図的に無視して、立ち上がる。
御殿に向かおうと踵を返した所で、ひっそりと立つ女が目に入った。
その女は、ゆっくりと腰を折る。
「おはようございます、朝晶様。お部屋にいないのでお探しいたしました」
「すまない、紅琳。早く目が覚めたから、庭に出ていたんだ」
尚豊付きの女官は、ふわりと笑う。
「お父君もご起床のようです。どうぞ、奥殿へお戻りください」
彼女は何もかも見透かしたようにいう。
ひとつ頷いて、御殿の中へ足を向けた。
父が聞得大君から聞き、その後かつての王の日記から読み取った事。
「王国が困難に直面した時、蒼の名を持つ人物が助力にくる。彼は決して約定を果たす相手を裏切らず、その手となり命を賭して助力する」
目印はその名と。
青い房飾りの付いた長剣。落ち着いた黄金の鞘を持つ、号、千代金丸。
宝剣と語り継がれるその剣を、何故一介の市民が持っているのかは分からない。
ただ、確かに蒼志の持つ剣は伝え聞くその剣の様相と酷似していた。
ああ、誰もが尚豊を追い詰める。まだ、たった14歳の、成人して2年ほどの小僧を、寄ってたかって追い詰める。
尚豊自身も、追い詰める。
奥殿について、そのまま居間を目指す。
尚豊の中で、澱の様に降り積もるのは、何という感情か。
ふと、振り返れば後ろに控えていた紅琳と目があった。
彼女はいつでも仄かに笑んでいる。
言葉は多くない。だが、常に笑んでただそこに控えている。
宛てがわれたこの女を、尚豊は信用していた。
「…ついて来てくれると、助かる」
「勿論、わたくしの主人は朝晶様です。この身が果てるまで、お供しましょう」
黒い、強い意志を持つ双眸。日に当たって少し焼けた、だが健康的な女。
その雰囲気が、蒼志に重なって見えた。
彼は、決して裏切らないという。命を賭して、この手、足となり助けてくれるという。
父の座す部屋の前。
尚豊は、ゆっくりと室内に足を踏み入れた。
「父上、征こうと、思います」
朝食の後。父母と弟妹の前で切り出した。
扉の向こう、紅琳が控えているのがわかる。そのさらに向こうから、笑う青年の視線があるように感じた。
強い、背を押す視線だ。
「…覚悟は、出来たのか」
息を飲む母と、キョトンと長兄を見返す弟妹の隣で、父だけは静かに問い返した。
グッと膝上で、拳を握る。
「はい」
澱の様に降り積もるのは、恐怖だ。
昨日、母の言って不安は正しい。今の尚豊では父母の助けなく何かをなす事は出来ないことを、知っている。
だが。それでも。
「私も、父上から王家の血をいただいています。ならば、何も出来なくても座を温めることはできるかと」
「思五郎金、あなたは…」
とっさに口を挟んだ母を手で制すのは父だ。
「この困難は、我が王家の始まりのそれより厳しいものだ。それでも征くか」
「王家の一員である以上、その責は少なからずこの肩にあります。金武にてその責はを果たすつもりでしたが、より適切な場があったのだと、思います」
王家の一員。人の上に立つものは、その背に、肩に負うものがある。
無条件に良い生活ができる訳では無い。
朝晶様と、王子と、そう呼ばれたびに。そしてこの御殿で何不自由ない生活を日々送るたびに。渡されるものがある。
今し方食した食事もそうだ。一口、食べるたびに、渡される。
より良い生活を。日々の糧に困らない生活を、何者にも脅かされない、当たり前に過ごす日常を。
そんな願いを敬意とともに受けとって、尚豊は日々を生きている。
背に負ったそれらの期待を、尚豊は返していかねばならないのだ。
「命はないやも知れん」
「この首一つでどれだけの民の命が贖えるのかわかりませんが、出来る限り、立ち向かいたいと思っています」
降り積もるのは、恐怖だ。
死ぬかも知れない。この手が、誰かを殺すかも知れない。手さえ下さす、誰かを殺してしまうかも知れない。
恐怖だ。
人の命は、自分の命は、まだこの肩には重すぎる。
出来うるならば、まだこの間切で父母の庇護のもと生活したい。
だが、それでも。
「わかった。…使者にはその旨伝えよう。供のものも何名かは選定できるよう取り計ろう」
父が。ふと、泣きそうに顔を歪めて。
「どうにもならなかったら戻って来なさい」
必ず、何とかしようと。
父としての言葉に。
尚豊はただ頭を下げた。
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