瘴霧の惑

「おはようございます、朝昌ちょうしょう様」

 蒼志と名乗る男との対面から5日。

 眠りの浅い日が続く尚豊は、扉の外からの声に目を開けた。

「ご朝食の用意が整いましてございます。どうぞ、お目覚めを」

 尚豊付きの女官の声がする。

「入れ」

 褥の上で上体を起すと同時に、女官が侍女を伴って入室してきた。

 先頭には赤を基調にした着物を纏った、黒髪の美しい女官とだ。名を紅琳こうりんと言う。尚豊が成人すると同時に与えられた女官だ。

 年齢的にも尚豊と変わらない歳であり、恐らく女官というよりは寝屋を共にする相手として配置されたと認識している。

 しかし、彼女の凛とした佇まいも相まって、あまりその様な雰囲気にもならず、結果的に女官としてのみ務めてくれている。

 多少距離は近くはあるが。

「おはようございます」

 改めて挨拶する彼女は、特にこちらの応えを待つでもなく窓を開き始める。

 淀んだ夜の空気が朝の風に一掃され、まだ半分眠りの世界に漂っていた体も急速に目覚めていく。

「お目覚めでしたら、すぐにお支度を。本日は母君が朝食を共にと仰っておいでです」

「…何かしたかな、私は」

 成人してから尚豊の食事は父母弟妹とは別にされていた。同じ御殿に住んでいるとはいえ、成人と同時に自立したものとされる。

 御殿の一棟を尚豊の棟として与えられており、主にそこで生活していた。

 今朝のように母が朝食に呼びつけるのは、珍しいことだ。有り体に言えば説教の為である。

 5日前に会った時には特に何も言われなかったはずだが。この数日で何かしただろうか、といいまだ半分眠った頭で考える。

 その様子を見て、侍女たちと共に手早く尚豊の服装を整えながら、紅琳は小さく笑った。

「尊い方々のお考えは私如きには。ただ、弟君、妹君もご一緒にということでしたから、難しいお話ではないかと」

 弟妹たちは上の妹もまだ8歳で皆幼い。その幼い弟妹の前で慕う兄を厳しく叱りつけるようなことを、父母はしないだろう。

 ならば確かに難しい話ではないのかもしれない。

 尚豊は鏡を見て服装を確認すると、肩を落とし気味に部屋を出た。

 後ろに紅琳が続く。

 寝間は侍女が片付けてくれる。続くのは女官である紅琳だけだ。

 自身の棟の居間を過ぎて、御殿母家の居間を目指す。

「少し急いだほうが良いな」

「はい」

 太陽を見上げれば、いつもより少し高い位置にある。

 寝過ごしたと言う程ではないが、母にしてみれば遅れていると言われるかもしれない。

 足早に母の元へ急げば、居間には自分以外の全員が揃っていた。

 父母に、弟妹4人。

 紅琳が居間から見えない位置で、素早く座し叩頭する。

 尚豊はそれよりもゆったりと座して、一礼した。

「おはようございます、父上、母上」

 扉の前で一礼すると、立ち上がって扉を潜る。

 室内には朝食の良い匂いが漂っていて、食欲を刺激する。

 弟妹達も入ってきた兄を見て、嬉しそうに急いで口の中の食事を咀嚼すると。

「おはようございます、兄上!」

 上の弟がまず最初に声をかけると、次々と挨拶をしてくれる。

「おはよう、思戸金うみとがね真銭金まじにがに思徳金おもとぅくがね

 末の弟は相変わらず母の腕の中で眠っている。

「おはよう、思五郎金」

 父がゆったりと笑う。

 そも表情に違和感を覚える。

「何かあったのですか?」

 嫌な予感を覚えながら、尚豊が問えば。

「新たな使者が昨夕到着した。---色々述べていたが、要は年内に王都の上がれという催促だな」

 言われて、目の前の朝食が一気に色褪せた。食欲も消え失せる。

「わたくしは、まだ早いと思います。成人しているとは言え、まだ14歳ですよ。まだまだ親の後見が必要です」

 母が少し怒り気味に言う。

 ふと、上の妹が食事から尚豊へ視線を向けた。

「兄様は、どこかに行くのですか?でしたら思戸金も行きたいです」

 にっこりと愛らしく、少女は言う。

「姉様、四の兄様は王都に行くのですって。真銭金はお土産はお菓子が良いです」

「まぁ!思戸金もお菓子が良いです!」

 妹たちが無邪気に言う。

 弟はそんな姉を不思議そうに見ていた。

 弟妹は無邪気に言うが、下手をしたら永遠の別れになる。

 地理的に首里と金武は遠方とは言い難いが、立場的に気軽に手紙をやり取りできる間柄ではなくなる。

 母とて反対しているわけではない。早いと言っているだけで。

 両親共に、何処かで諦めなければいけないことをわかっている。

「お前は、どうしたい?」

 問うたとて、道は定められようとしている。

 行きたくないと、言ってももいいのだろうか。

 だが、己が拒否すれば、次は誰にこの重責を負わせるのだろう。

 目の前で、不思議そうにこちらを見る、幼い弟か。

 まだ、母の腕の中で小さく寝息をてる弟か。

 尚豊は、無性に泣きたくなった。

 


「また、随分と暗雲を背負ってるな?幸運が逃げるぞ」

結局碌に朝食を食べずに与えられた執務室に戻った尚豊は、唐突にかかった声に大きく肩を揺らした。

何事かと振り返れば、あの時市で出会った青年が窓枠に腰をかけてこちらを見ている。

唖然と、見返すしかない。御殿は住居であると同時に役所の側面もあるため、人の出入りは多い。

 特に父や自身の執務室があるこの殿は見知らぬ者も多くいるだろう。だが、決して警備がなされていないわけではない。

 先日の少人数での市歩きとは訳が違う筈だ。

 なのに、彼は腰に長剣を下げたまま正面の扉ではなく背後の窓辺から。

「間抜け面だ」

 彼は驚く尚豊に構うことなく腰を上げて室内に降り立った。

「警護が緩い。俺は今お前を殺せるぞ」

 同じ部屋には、補佐役の男が1人だけだ。彼も驚きで身を硬くしている。

 警護は扉の外。否、窓の下あたりにもいたはずなのだが。

「…殺すつもりがおありで」

 なんとか言葉を絞り出せば。

「お前、結構図太いよな」

 彼は、ころりと表情を変えた。笑んで、言う。別段批難しているつもりはないらしい。もちろん危害を加える気も。

 止めていた息を吐き出すと、尚豊は補佐役を振り返った。

「その書類は決裁に。あとは各部署に持って行っておいてくれ」

 言外に退席を促す。

「しかし、朝晶様…」

「大丈夫、彼は私を殺す事はないよ」

 頼むと、重ねて言えば補佐役は後ずさる様に退室した。

 その様を見て、彼–––蒼志は顎に手を添えた。

「あれは警護を呼ばれるな」

「当たり前だ」

 応答に呵呵とした彼に、尚豊は胡乱な視線を投げる。

 風が、蒼志の長い黒髪を揺らす。

「それで、今日は何用で」

 やたらと絵になるその様を見ながら、尚豊が問えば。

「何、御殿に暗雲が掛かっているから覗きに来たんだ。発生源はお前だったが」

「…嫌な事を」

 顔を顰めて見せれば、蒼志の口からさらりと零れ落ちる。

「母親とは、やはりこの庇護心が強いものだな」

 その、言葉を理解して、背筋が凍った。

 尚豊が母と会話をしたのは今朝の話。まだ昼食の時間にもなっていない今、外部の人間が何故それを知っているのか。

 にいっと口端を吊り上げて蒼志は笑う。

「だから警護が緩いと言っただろう?」

「…その様だ」

 嫌味を含んだ言葉に、応じたのは尚豊ではない。

 蒼志が背にした扉を見やれば、そこには父が悠然と立っていた。

 先程の補佐役が呼びに行ったのだろうか。それにしては刻が短い気がするが。

「で、其方は一体何者か」

 父は鋭い目を蒼志に向けている。いざとなれば外の警護をすぐに呼べるよう、身構えているのが尚豊にもわかった。

 琉球はここ数百年戦乱を経験していない。偉大なる3代目の尚真王の世以来、王家内の政争さえなかったのだ。

 金武間切とて尚久がこの御殿を築いてから今の瞬間まで、不審者の侵入を経験したことはなかった。

 だが、蒼志はその警戒を正しく理解しながら腰の長剣を一撫でしてみせる。

 ぴくりと父の肩が揺れたのを、尚豊は見る。

 蒼志も見ただろう、長剣からゆっくりと手を離すと、やはりゆっくりと腰を折って、頭を垂れた。

「英邁なる大金武王子にお会いできると恭悦。俺は蒼志と言う。基本的にはただの一小市民だ」

 蒼志、と父が口の中だけで呟く。

 今度は父が顎を撫でると、ゆったりと首を振った。

「…蒼の子供。約定の子供か」

「子供という歳でもないが」

 以前父が聞いたという、蒼の名を持つ約定の人。

「危急の時には約定が果たされると。第一尚氏の時代からの、…そう、言い伝えだな」

 随分と古い話が出てきた。第一尚氏とは、今から200年ほど前にこの琉球を収めていた王統だ。

 尚豊たち第二尚氏は政争でその地位を譲位により得てその王統を開いたと言われている。

 蒼志はニィッと口端を釣り上げて、顎を摩った。

「正確には尚氏に対してではなく、琉球を統べる者との約定だな。約定と言えど書面で何か残っているわけでなし、よく大金武王子はご存知だ」

「かつての王、尚思達しょうしたつ王の日記を首里で読んだ事がある。恐らく現王家で読んだ事があるのは聞得大君以外では私だけだろう」

 それはつまり、神女ノロの最高位たる聞得大王以外には、王とて知らぬ事という事だろうか。

「…成る程。それは予想外」

 蒼志が、彼の表情で初めて見る嫌そうな顰め面をして見せた。

「おそらく現王さえ知らぬだろう。詳しく知るのは、聞得大王だろうが」

 聞得大王は琉球の神事を行う各地の神女の最高位の女性だ。代々王に近い女性、前王妃か王女がその地位に就く。

 彼女達は、不出の神事の全てを取り仕切る。決して権力を持つわけではないが、その言葉は時として王とて従う必要がある。

 その、聞得大王のみが伝える、蒼志曰く琉球を統べる個人との、約定。

「……何故、私に?」

 当たり前の疑問を零せば、彼はゆったりと肩を竦めた。

「先日言ったろう。今の琉球の窮地を打開しようとするのは、お前だけだ。何より、お前が相手だと俺が見極めた」

 ああ、こうして、誰もが尚豊を追い詰めて行く。

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