暗愁の朝
市場から御殿に戻って早々、尚豊は父の執務室へ足を向けた。
この時間、通常であれば父は休息をとっている頃だ。
案の定、扉の向こうでは父が母と共に卓を囲んでいるところだった。
「父上、失礼致します」
声を掛ければ、2対の視線が尚豊に向く。
「どうした、珍しいな。市で何か問題でもあったか?」
薄く笑った父と、柔らかく笑う母。
その母の腕の中には先頃生まれたばかりの弟が小さく寝息をたてている。
「お寛ぎの所、申し訳ありません。市は問題ありませんでしたが、別件でお伺いしたい事がございまして」
卓の尚久の前を勧められて、そこに腰を下ろす。
すかさず女官が茶を置いて、下がる。
「
思五郎金とは、尚豊の童名だ。通常琉球では成人しても童名で呼ばれる。
成人した時点で唐名や大和名は授けられるが、公的な場や公式文書でしか利用しないのが通常だった。
母も
流石に王子夫妻を童名で呼ぶのはお互いだけだが。
「相変わらずです。ただ、明からの輸入品が少しずつ値が上がって来ています。…こればかりは王府に何か対策を願うしかないかも知れません」
下の弟をゆったりと揺らしながら問うた一鏡に、尚豊は茶で口を湿らせてから応じる。
「では、聞きたいこととは?」
尚久が問う。
「父上は約定、と言うのをご存知でしょうか。…今日、市からの帰路で蒼志という、私とあまり歳の変わらない男に出会いました」
「約定?」
「はい。彼は、約定により困っているなら助けてやる、と」
「随分とまぁ、横柄な。思五郎金、危害は加えられていないのですね?」
「はい。母上、ご心配なく。護衛もいましたし問題ありません」
尚久は首を傾げて約定を考え、一鏡は不快げに眉を顰めた。
「その男は、お前と歳は変わらないのだな?それ以外に何か言っていたか?」
「いいえ、それだけ…ただ、この御殿のことを良く知っていました。王府から使者が来たことも、その内容も、彼は知っていました」
その言葉に、尚久が気色ばむ。
当たり前だ。知っているか、と問うたと言うことは尚豊はその男を知らない。
そして今の反応では尚久も思い当たる者が居ないのだろう。にも関わらず男は箝口令を敷いた筈の情報を把握している。
「この時期王府から使者が来たと言うことは、大体予想がつくと、彼は言っていました」
「念の為、改めて侍従たちにはもう一度注意を促そう。お前からも、側近たちには伝えておけ」
一鏡が顔を翳らせる。
「子供達の護衛も少し強めましょう。奥でも警戒せねば」
「ああ、そちらは任せて良いか?」
「勿論です。すぐに」
御殿の奥は妃の一鏡が全て任されている。把握していない侵入者がいるのであれば、警護を厚くするは当然と言える。
一鏡は尚久と尚豊に対して退出の挨拶をすると、いまだに眠る弟と共に部屋を出て行った。
扉の外で乳母と女官、護衛がその後ろに続くのを見て、尚豊は視線を戻した。
尚久は難しい顔のまま、顎を撫で摩って。
「その男が現れたと言うことは、お前が困っていると判断したと言うことだな」
「だと思われます。話の内容から、使者の用件かと」
「困ったら助ける約定…」
「蒼志自身で交わした約定ではなく、約定を果たす相手も蒼志が決められる…ような口ぶりでした」
蒼志は、「俺の約定の相手は尚豊だと自分が決めた」と告げた。
それは、約束はそこにあり果たす者は蒼志と決まっているが果たしてもらう相手は果たす者が自由に決められるような言い様だ。
蒼志の約定の対象になったのは、王世子候補に挙げられているからだろう。つまり、現在琉球王国が困った事態に陥っており、その解消のために手を貸すということだと思われる。
そして、今琉球王国が直面する問題を解決しようとするのは自分だろうと言った。決して解決「できる」とは言わなかった。
嘘だろう、と言いたかった。
王都に近いとはいえ、ここは王都では無いしこの御殿は王府ではない。
それでも聞こえてくるこの国の置かれた危機的状況に、尚豊は蒼志の言を王族の一員として、施政者の1人として、否定しなければならない。
だって、それでは無責任が過ぎるではないか。
仮にも王位やその周辺。国を政どる者達が、解決するつもりもないと言っているのだ。
国政を担う者が無責任では、その皺寄せは国民にゆく。
この王国は階級制であり、貴族制度であり、その最たるものは王族だ。
だからこそ、尚豊を始め貴族たちは多くの者に傅かれ、守られ、生活をしている。
傅かれ、守られるのは、その背にそれだけの責を負っているからだ。
国を豊かにし、誰も飢えない豊かな生活を保証する。その責を負うからこそ、民は自分に傅き、敬う。税は納められ、その税で生活している。
少なくとも尚豊はそう教えられていたし、その事実を認識した上で尚久の補佐を行なっている。
いずれ、尚久が高齢になりその政務を担えなくなれば、己が担うのだと。
「心当たりがあるかも知れない」
尚久の言葉に、尚豊の思考は切れた。
焦点があったその先で、尚久は難しい顔をしたまま腕を組んでいた。
「まだ王府にいた頃、兄上と共に
尚久のいう聞得大君は、
現在は尚元王妃、
記憶を辿るように、尚久は告げる。
「尚氏が危機に瀕した時は、蒼の名を持つ人物が助力にくる。彼は
「千代金丸…とは、あの宝刀の?何故どこの誰とも知れぬ者が尚氏伝来の宝刀を持つのです?首里の宝物庫に保管されているのではないのですか?」
千代金丸とは、尚氏の宝刀だ。大和の技法を元にして作られた太刀だと言われている。
尚豊自身は目にしたことはない。それを目にできるのは王と妃、そして聞得大君だけと聞いている。
尚久自身も見たことはないと首を振った。
「詳しいことはわからん。聞得大君もそれだけをお話し下さった」
「確かに、蒼い房飾りの刀を腰に下げてはいましたが…」
「いずれにせよここで悩んでも仕方あるまい。危害を加えられないのであれば、暫く放っておけ。ただし、情報の漏洩にだけは気をつけよ」
尚久も詳しいことはわからない。今わかっているのは、御殿で目にしたことのない人間が、何よりも深い情報を知っていたということだ。
何故知っているのかわからない以上、守りを固めるしかないだろう。
尚久はそういうと執務に戻り、尚豊も自室に戻らざるを得なかった。
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