望まぬ深淵

 昼であるのに、目の前が暗くなった。

 とうとう来てしまった、とそれだけが頭の中を埋め尽くす。

 目の前に座る初老の男を前に、尚豊はただゆっくりと絶望した。

 尚豊の隣では、父である尚久しょうきゅうがゆっくりと息を吐いた。

「我が子には荷が勝ち過ぎる。父親としては、そう思うが…」

 尚久が嘆息と共に言葉を吐けば、その男は大袈裟な程首を横に振った。

「そのようなことはございません。この金武間切きんまぎりはよく治っておりますし、その評判は首里にも届きます。大金武王子うふきんおうじの補佐として尚豊殿も名高い。尚豊殿を置いて他に、適任などおりますまい」

 男は、身を乗り出す様に熱心に告げる。だが、その言葉はどこか空回っているようにも感じる。

 尚豊は父を横目で見遣った。

 尚久の表情は硬い。

「王より、このように書簡も預かっております。どうぞ、ご覧の上でご決断ください」

 ずい、と差し出された書箱に、だが二人は手を伸ばさなかった。

 父は一つ首を振ると、初老の使者に口を開く。

「書簡は確認させていただく。いずれにせよ、そう簡単に決断もできぬ。少しお時間をいただいてもよろしいか」

「勿論でございます」

「返答まで、使者殿もこちらで休まれるのが良いだろう。部屋を用意する故、ゆっくりとお過ごしを」

「ありがとうございます。是非金武間切の中を見せていただきたいのですが、よろしいですか」

「間切も、この御殿うどぅんの中も、ご自由にご覧ください。世話役に人をつけますのでなんでもお申し付けを」

「お心遣い、感謝いたします」

 では、と一言言い置いて、使者は腰を上げた。

 案内役の女官の背について部屋を出たのを見届けて、尚久はもう一度息を吐いた。

 先程より長い。肩の力を抜いて、足を崩す。

「………父上」

「断ることは難しいな…」

 自分の時とは、状況が違う。父はそう告げて、書簡を手に取る。

 広げた紙の中には、黒々とした達筆で文字が書かれているのがわかった。

 尚豊からは、最後の署名と印だけがやたらと鮮明に見える。

 だが、内容については先程の使者が告げていた。


 −−−尚豊殿に、王世子として首里に上がっていただきたい。


 現王尚寧には、子がいない。

 妃と夫人が2人、その後宮に入ってはいるが、そのいずれにも子がいなかった。

 この2代程、琉球王は男児に恵まれていない。 

 2代前の尚元王には3人の王子がおり、第1王子は子をなさず今から30年近く前に薨去している。

 第2王子は尚永王として王位に就き1妃2夫人を娶ったが、女児2人のみで男児がいなかった。

 第3王子は誰あろう、目の前の父だ。実際尚永王が薨去した際、何より最初に父へ王位の打診がきた。

 だが、尚久はそれを固辞し曽祖父である3代国王尚真王の長子、廃太子尚維衡しょういこうの曾孫にあたる尚寧を、尚久の異母姉であり尚元王妃の娘である王女を母に持つことを根拠に王位に推した。

 その結果、尚寧王は先代尚永王の第1王女、阿応理屋恵按司加那志あおりやえあんじがなしを妃として娶り、王位に就いた。

 しかし、現時点では1人も子がいない。

 現在尚氏を名乗れる人間を見渡した場合、王世子として先代王の甥であり先々代王の孫にあたる尚豊が、14歳という年齢的にも適任であると言うことは至極当然と言えた。

 これで尚豊が男子1人となれば話も変わったろうが、幸か不幸か弟が2人いる。

 また、早世しているが兄も3人いた事実もあり、その他に既に嫁いだ姉が2人、妹が2人いる。

 王家の現状に反して、父は子宝に恵まれかつ男子にも恵まれていた。

 この後も父母の間には子が望める事を考えれば、尚豊が首里に上がったとて余程の事がない限り金武間切の後継に困る事はないだろう。

 また、子に恵まれた父の子である尚豊も子沢山、更に男子に恵まれる可能性を見出している可能性がある。

 勿論尚寧王の年齢は父、尚久と変わらない。今後も妃との間に子が望める年齢だ。

 もしも尚寧王に実子ができれば、尚豊はお役御免となるだろう。

 だが、果たして今急いで王世子を立てようとするのは何故なのか。

 その理由を、尚久は勿論尚豊もわかっていた。

 間切にいても聞こえてくる、外交的に置かれている窮地。

 現在、琉球は強大になった隣国大和と宗主国たる明との間で慎重な舵取りを求められている。

 己よりも長くまつりごとに関わっている重鎮達でさえ持て余しているその問題を、まだ20年も生きていない自分が父の助言もなしにその責務を全うできるとは思えない。

 絶望で目の前が暗くなる感覚を覚える。

 尚豊は王になど、王世子になど、毛先ほどもなりたくはなかった。

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