揺籃

「今年の夏は、デイゴは良く咲きそうだな」

 王城に与えられた部屋から城下を見下ろすその窓辺で、彼は笑いながら言った。

 心底面白そうに笑う彼は、この城に仕える者ではない。かと言って出入りの自由を保障されているわけでもない。

 端的に言えば侵入者であるが、尚豊しょうほうは守衛を呼ぶでもなく首を振った。

「笑えない」

 女官を部屋から下げる前、彼女達が用意して行った茶器を指差せば、彼は窓辺から離れて室内の椅子に腰を下ろす。

 尚豊も向かい合うように腰を下ろした。

 今日は、満月だ。秋の澄んだ夜空にぽっかりと浮かんだ月と、室内の蝋燭で二人の視界はほの赤い。

 茶が注がれた器を前に置けば、彼はゆっくりとそれを口に運んだ。

「さすが王世子。いい茶を飲んでる」

 俺は然程味に詳しくはないがな。

 口端を吊り上げて、彼は言う。

 尚豊も茶を口に含む。爽やかさが鼻を抜けた。明から輸入された茶葉だろう。琉球ではあまり茶の栽培が盛んではない。

「先ほどの話だが、蒼志そうし

 口内を茶で湿らせた尚豊が話を促す。彼−−−蒼志は茶器を口につけたまま視線だけをこちらに向けた。

「嵐は、来るだろうか」

 聞いてはいるが、確認に過ぎない。

 嵐は来てしまう。これはもう避けられることはないだろう。

 蒼志が唇を笑みに象ったまま、茶器を唇から離す。

「小耳に挟んだが、謝名じゃな殿がやらかしたとか?」

 それは、決して広く認知された情報ではない。彼はいつでも、どこからか城内の情報を掴んでいる。

 それを不思議に思うことはあったが、その情報収集手段を教えてもらえたことはない。

「ああ。だが、決して謝名殿が全面的に悪いわけではない。大和の要求は謝恩使だ。我が琉球は大和の属国ではない」

 そもそもが無理難題なのだ。言外に伝えた尚豊に、だが蒼志は肩を竦めることで応じた。

「だが、大和はそうは思っていない。ヤツらが琉球に対して無理を言うのは今に始まった事ではないが、黙殺し続けたのは悪手だったな。今更だが」

 蒼志の指が、机の上の茶器を弄ぶ。

 尚豊に比べても、骨ばった大きな手だ。剣を扱い慣れた、見るからに硬い掌。

 服の上からもわかる鍛えられた強靭な体躯、腰に下げた蒼いと紫の房飾りの2振りの刀。日に焼けた肌に、背の中程まである黒い髪は、首の後ろで一括りにされて、仄暗い室内でも光沢を放っている。

 王城に仕えていれば、恐らく女官に騒がれただろう、整った容姿。

 彼は、かたりと頬杖をついた。

「大和は、政権交代した混乱がある程度収まってきてる。そろそろ内政の立て直しにかかるだろう」

 無骨な手が、腰の剣を一撫でする。房飾りが、ゆらりと揺れた。

「今までもそうだったが、のし上がる男は無能じゃない。大抵そういう人間は人の使い方と情報の使い方を心得ている」

 近頃大和は豊臣という男から徳川という男へ、その政権が移動した。その情報をもたらしたのも蒼志だった。

「6年前に琉球の船を送還してきたのは、今はその徳川の臣下だ。琉球と交渉の窓口になっている島津は、その徳川と敵対した事実があるからな。我が家を守るために差し出す手土産に、琉球は丁度良い」

「だが、この国は島津の臣下ではない」

「そう。島津もわざわざ琉球との独占貿易権を手渡したくはなかろうよ。だが、島津も大概台所事情がよろしくない」

 口腔内を茶で湿らせる。

 喉が、ひりついた。

「まぁ、古今東西、言い分がぶつかったら大抵戦争だ。力づくで黙らせるのが連中の常套手段だ。そうなって仕舞えばこちらも同じ手段で対抗するしかない」

 茶器がかたりと、机の上で音を鳴らす。

 尚豊はゆるく首を降った。

「つい先頃まで戦争をしていた連中に、琉球が太刀打ちできるとは思えない」

「その通りだ。王や三司官が言うことは、確かだ。属国でもないのに謝恩使は送れないだろう。だが、連中はそれを理由に侵攻する力がある。先端が開けば、琉球は1日とて保つまいよ」

 俺がひょいひょい、お前の部屋まで来ている時点でもうダメだろう。彼は言う。

 その通りだ。彼は王城に仕えているわけではない。年の頃は20歳を少し超えた位の素性不明の怪しい男だ。

 そんな男が、王城でも王に次いで警備が厳重であるはずの王世子たる自分の部屋に、誰に見咎められるでもなく剣を下げたまま侵入を果たしている。

 彼が害意を持てば、尚豊などあっさりと抵抗する間も無く害されるだろう。

 それ程琉球という国は戦うという事と縁遠い。それは本来、良い事のはずなのに。

 大和がその先端を開いた場合、どこまでを交渉材料にできるだろうか。尚豊は思考を変える。

 王世子たる己の首ひとつで済むか。それとも王の首も必要か。三司官は、各地の親方は。王妃や神女はどうか。

「大和が欲しているのは、あくまでもこの国の貿易や明との繋がりだ。そう簡単に王族を殺すことはないだろう」

 蒼志は冷静に言葉を吐いた。

「物資や金なんかは搾り取られるだろうがな」

 つまりそれは、民に無用の負担を強いるものではないだろうか。

 尚豊の漆黒の双眸が揺れる。

 それを見て、蒼志は笑った。

 笑って立ち上がり、窓辺に近づくとひょいとその枠を跨いでこちらを振り返る。

「できる限り助けてやる。約定だからな」

 言って、蒼志はひらりと窓の向こうに消えた。

 王城は高台に聳えている。そしてこの部屋は決して地に近いわけではない。

 通常であればただでは済まないが、彼はいつもふらりと窓辺に現れて、ふらりと窓辺から消える。

 時折現れては少しだけ話をしていく彼の訪を、尚豊は密かに楽しみにしていた。

 話の内容は都度違う。今日のように物騒な会話の時もあれば、どこそこの屋台の飯がうまい、と言うようなとりとめもない話もする。

 だが、尚豊は蒼志の素性を知らない。言葉遣いから、恐らく琉球に長く住んでいるのだろうことは予測できるが、その出身が大和なのか明なのか、それとも琉球なのかはわからない。

 ただ、ある日、彼は尚豊の前に現れた。

 生まれ育った金武間切きんまぎりを離れ、この首里に上る頃。

 困ったことはあるか?

 彼の第一声は、それだった。

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