第9話 決意
安藤教授の部屋はここだ。
コンコン。ノックをした。
「入ってまーす。」
と声がした。別にトイレではないのにな。
失礼します。
ちょっと緊張がさっきのギャグで和らいだ気がする。ガチャリ。
以前なり、じゃなくて、安藤成政君から取り次いでもらった工藤まことです。そう言った。
「はい。よろしくお願いします。」
礼を先にされた。慌てて姿勢を低くする。よろしくお願いします。
「よかった。久しぶりに若い客と会った。」
はい。そうか、教えるのは弱冠20歳前後の人だけだもんな。こんな子供を相手にすることなんて滅多にないんだろう。
「この時期は夏休みなんだよ。だから誰も来なくてね。」
はい。そうなんだ、もう夏休みに入っているんだ。しかし大学の研究室って狭いんだなあって思った。こんなところで研究に集中できるのかなあ。
「元気いいね。もっとリラックスしてくれて構わないよ。さっき言ったろ。若いお客さんって。そういう場合は、もっと甘えていいんだ。」
ありがとうございます。でもこれでいいです。まだ高校生である僕はまだ偉ぶってはいけない年齢だと知っている。
「じゃあ甘えなくていいから、リラックスだけしたらどうだい?デスマスだけ忘れなければいいんだよ。君の歳は。」
はい。そうさせていただきます。
はいお茶と言って、緑茶を出してくれる安藤教授。なんか優しい目で見られると、何か用があるのは向こうなんじゃないかというような気がしてきた。
しばし楽しく話した後。
「で、今日はなんの話をしにきたんだい?」
実は見ていただきたいものがありまして。
Qリングを差し出す。いつもゴミ箱に捨てると戻ってきて指にすっぽり収まってくるQリングだが、今日はおとなしく教授の手のひらに収まった。
「ほう。これは。何か文字……記号か?……んんん?なるほどね。きみ、これをどこで?」
窓から入ってきました。とだけ言った。細かく、閉めた窓をすり抜けて入ってきました、なんて言ったら、どう大笑いされるかわからない。
それを聞いてか、教授はQリングの刻印を指で指しながらこう言った。
「ケース41。6+ルートマイナス5。6+ルートマイナス5。とある。」
紙を差し出す教授。なんだろう。ペンも出てきた。まさかとは思うが、ひょっとしてこれは……メモ用紙?
「計算できるかい?ルートのついた二つの数の掛け算」
すいません。数学は苦手で。と言っている時に、一応気になってはいた。確かマイナスとルートが一緒に出ていたような。でもすぐに先生はその掛け算に罰点をつけて、そして、確か……。
「ルートマイナス5は大学で習う数字だ。虚数を君は知っているかい。ただiと書くだけでマイナス1は二つのルートのようなものに分かれる。……わかる?」
あ、そうだ。虚数だ。iの話があった。しかしルートの中にマイナスを書くなんて、間違いだと言われたことが、大学では正しいことになっているのか。
「この6と5が出ている数字2つの積はちょうど41だよ。」
そうなんですか?僕はそこで希望を見た。厄介な指輪とおさらばする機会が近づいている。ケース41。そして二つの数の積。
「そして41は素数だ。素数の41が二つの数字に割れたら、もうこれは素因数分解のできる域を超えている。詳しいことは類体論に乗っているよ。」
「さすが教授。お目が高い。」
あ。喋ったこのリング。いいのか?自分の正体がバレバレになったら、科学者が分析しにくるかもしれない。
「ん?なんだ?」
あ、このリングは喋るんです。そうだ。この大学の研究室で分解してもらえば助かるかも。そう思ったが、その前に安藤教授のセリフが挟まれることになる。
「ほう。チップでも入っているのかな?」
「フェルマー様の業績をご存知とは。嬉しいことです。」
「それはどうも。」
「私の望みは、彼が数学に興味を持つことです。」
「ほお。」
なんだって。僕が数学に興味?無理に決まってんだろう?と思った。そんなことを言われても、逆立ちをされても、無理なものは無理だ。
「と、言っているが。君は興味あるわけではないようだね。さてはこのリングがうっとおしくて僕のところに来たね。」
……ごめんなさい。助かりたい一心で。でももういいです。俺、このリングと一生生きていきます。正直にいうけど、難しい数学を勉強なんてしたくないんで。すいませんでした。
きゅいいいん!
リングは形を変えて鍵になり、先回りしてドアノブの前でカチリと鍵の体をひねった。そしてカランと落ちた。
ま・さ・か!
ガチャガチャ。開かない。こっちは内側なのに、ドアは接着剤をつけられたかのように動かなくなった。
「私はあなたをもう一度数学好きにするまで返しません。」
ふと鍵を見ると、もうリングに戻っていた。質量を無視して鍵になり、内側である事実を無視して鍵をかけ、僕の意見まで無視する気だ。
「ということは、数学好きにしたいというリングは君と一緒にいたいわけでいるのではないのでは?」
「その通りです。フェルマー様。」
「冗談やめてくれ。フェルマーではないよ。それで、彼が数学好きになったら君はどうするつもりなんだい。」
「次のフェルマー様を探します。このフェルマー様の呼称は、主のことです。」
「だそうだ。」
でも。できないものはできないんだ。やってみようとしても頭が途中で働かなくなる。そのうち飽きる。これは精神論で乗り越えられるものじゃない。
「嫌がっても数学の扉もこの扉も開いちゃくれないぞ。第一私はどうやって外のトイレで用をたすのかね。食事は。」
教授は嫌じゃないんですか?教えるのが。こんなルートとマイナスとの組み合わせを知らない子供なんて。
「私は教授だよ?君を教えるなんて造作もないさ。出す論文は数学の教育関係の論文だしね。いい資料になる。」
そんなことが、あっていいはずはないと叫びたかった。このリングはきっとなんでも知っていたんだろう。ここに適格の数学の師匠がいることまで。
「それにさっきから腹がなりそうで困っていてね。奢るから、その扉とりあえず開けないか。」
嫌です!無理です!僕は後ろに後ずさりながら首を横に振った。泣き叫ぼうと思った瞬間、教授は言い放った。
「君は数学に未練はないのか。」
え?なんでそんな言葉が出てくるんだ?未練なんか持っている訳がない。なのに藁をもすがるというべきか、知らずと続きを待った。
「数学わかっている立派な社会人にはなりたくないのか。日本の社会人はみんな秘密を持っている。その秘密という名の箱は滅多に見せることはないが、あるだけで安心するものなんだ。その秘密の正体は何かわかるか。」
?なんだろう。プライドだろうか。安藤教授にそういうと、半分正解と言いながら、それは何を証拠にするのかと聞いて来た。しばしの間があって、教授は続けた。
「大学で学んだことだよ。学士論文さ。」
「学士論文。」
「書きたくはないか。君は見たところ勉強できなさそうだし、腕は細いし。これは俺の勘だがな、手先も対して誇れるもんじゃないんじゃないか?」
!何故それを!僕が何者でもないことを、教授は今日あっただけで当てた。どういうことだろう。僕の空の心の隙間に、心臓ではなく心の隙間に、教授の人差し指が入ったようだった。
「適当に言ったら当たっていたな。というよりは、そういう子にしか俺は興味ないんでね。」
Qリングを僕の手のひらに置く安藤教授。それは、まるで教授が私にもう一度呪いをかけなおしてしまうような行為だった。
「やって見ないか。見たところこのリングもそれ以上のことを求めているとは思えん。人のことフェルマー様なんていうリングが、数学者と関連がないわけない。そして数学者ほど苦悩に満ち、根の良き人柄もない。信じてみろ。俺とこのリングを。」
もう、やぶれかぶれだ。
わかりましたよ。本当にどうなっても知りませんからね!
ガチャリと音がした。
「コード認証しました。頑張ってください。フェルマー様。ああ、また逃げたら次の手も用意してあるので。」
かちゃ。開くドアを前にして、ほっとする反面、教授はニコニコしてこっちを見ていた。どうやら本当にやるしかないらしい。
「ご飯食べに行くよ。」
とりあえず、腹が減っては戦はできぬ、か。まことはずっしりとしたものを感じた。これがなくなるときはくるのだろうか。彼の人生で、初めての決戦だった。
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