空
0
洗面所で眼鏡を外し、カラーコンタクトも外した。
部屋の中には何もなかった。散乱していた紙も、青もいない。そして、私も今日でいなくなる。
『査定』の方法は財閥側が指定した場所に被験体が無傷で現れれば合格、だった。指定場所に青は現れず、結果は不合格。私はお払い箱になった。
最低限の荷物を詰め込んだキャリーケースを引っ張って、私はドアを開けた。もう二度と、戻ることはない。
「ラボ始まって以来の天才が、随分とあっけない結末だね」
クレスだった。腕を組み、壁に寄りかかって立っていた。
「二度と来るなって言わなかったっけ?」
「君が僕を訪ねてきたんじゃないか」
「さあ、忘れたな」
そう言って私はクレスに瓶を投げる。それは、査定の前夜に彼に借りた記憶除去薬。彼が開発した『
「なんでこんなもの借りたんだ?」
瓶をキャッチして、クレスは私に尋ねる。
「……落下の衝撃で記憶を失ったのか、その薬の効用で記憶を失ったのか、分からなかったからさ。まったく、厄介なものを作ってくれたよね」
「なんだって?」
クレスは私の言ってることがわからないようだった。わかってもらうつもりもなかった。
「それじゃあ御機嫌よう。薬、貸してくれてありがとね」
私はクレスに背を向けて歩き出す。
「待ってくれよ、ドクター・イツキノ。最後に教えてくれ。あの少女は君にとってなんだったんだ?」
「……」
記憶を取り戻したのは、高校三年生になってすぐのころだった。
朝、顔を洗うために鏡を見た私はそこに映る顔を思い出した。
それは斎野藍の顔だった。
その瞬間研究所の記憶が蘇り、同時に博士の意図が、そして、私は何をしなければならないのかがわかった。
私は今から一人の少女に出会わなければならない。誰かの都合で無責任に生み出された少女に。
だが、手放すにはあまりにも私の日常はかけがえのないものだった。私は葛藤した。だが、どのみちこの日々を捨てなければ綱介と出会うことも出来なくなってしまう。
せめて綱介に自分の想いを伝えたかった。だが、結局それはできなかった。私は彼の元を離れねばならない。離れ離れになることがわかっているのに告白するなんて、そんなことはできなかった。
突然の私の申し出に驚く養父母をなんとか説得し、私はアメリカへ留学した。そして飛び級で大学に合格し、19歳の時に『斎野藍』としてラボに入所した。
そして1年後、白い廊下の果てで私は彼女に出会った。–––青に。
最初は、博士の言葉を一言一句間違えずに青に伝えなければと思った。そうしなければ未来が変わってしまう。と。だから博士の言葉を思い出せるか不安だった。
しかし、青の姿を見ていると、いずれ私になる少女の姿を見ていると、自然に何を言うべきか分かった。そして言った後で、かつて同じ言葉を『博士』が私にくれたことを思い出したのだった。
タイムマシンは無事完成した。だが、私は青を空から落とさなければならないことにどうしても抵抗を覚えた。だけれども、記憶を失わなければ、未来は変わってしまうかもしれない。それに、青にも体験して欲しかった。綱介たちと過ごした、あの青春を。
そしてついに昨日、私は青を送るという最後の役目を終えた。
「あの子は……私の分身のようなものだよ」
クレスの質問に私はそう答えた。
「オー、なおさらわからない。だったらどうして彼女を被験体に?」
これ以上話しても無駄だろう。私は黙って
「なあ! 君の研究はデータベースで読んだ。あれは完璧な理論だった! 僕には君がわざと失敗したようにしか思えない! なあ! ドクター・イツキノ! 一体なぜ……」
私は答えず、歩き続けた。クレスは諦めたように、最後にこう言った。
「君は一体何者なんだ……」
私は立ち止まり、振り返る。
「私は青だ。それ以外の何者でもない」
0
青はいなかった。
当然のことだった。いつまでも学生のころの夢に浸ってないで、大人になれ、ということだろうか。僕はため息をつく。まずは新しい職を探さなきゃだ。
青。僕の日常に突然現れ、突然消えた少女。今となっては本当にすべてが夢だったんじゃないかとすら思える。
『待ってて、くれる?』
青が僕に言った言葉。一体僕はあとどのくらい君を待てばいいのだろう。
僕は防波堤に停めておいた自転車のところまで向かった。
僕の自転車の荷台の上に誰かが座っていた。髪の長い女の人だ。傍らにキャリーケースがあったから旅行者なのかとも思ったが、彼女はこの暑いのに白衣という、妙な格好をしていた。
「あの……」
僕は近づいて声をかける。
彼女は振り返った。
「ねえ、乗せてってよ」
彼女の顔を見た僕は呆然として、それからやっと驚いて、そしてやっとこう言った。
「また……怒られちゃうよ?」
彼女は笑って答える。
「じゃあ、見つかるまで」
15
海岸に降りたぼくは空を仰いだ。やはり間違いない。空から人が落ちている。しかもあの人は……
ぼくがそう思った瞬間、空中の人物はパッとパラシュートを広げた。青一色の空の中にピンク色のパラシュートが映えた。
その人はゆっくりと降下して、砂浜に降り立った。
「あ!
ぼくに気づいたその人は手を振った。ぼくはやれやれと思う。
「海岸で待ち合わせって言ったら車かなんかで来ると思うよ普通は」
「そう? でもほら、今日は絶好のスカイダイビング日和じゃない。やらないともったいないよ」
そう言って母は笑った。
ぼくの母は何の研究をしているのかは知らないが科学者で、外国の学会に参加して今日帰ってきたところだった。その世界では結構有名人らしいけど、スカイダイビングというアクティブな趣味を持っている。
こんな人と地元で普通のサラリーマンをやってる父がどうやって出会ったのか、未だに不思議だ。
「ほんと、いい天気だね、今日は」
母はそう言って空を見上げる。ぼくも追って視線を上にあげた。はるか空の彼方には、母を乗せてきたのだろう一台のヘリコプターが旋回している。
「……でも何かが降ってきそうじゃない?」
ぼくは母の言ってることがわからなかった。こんなに晴れている空から一体何が降ってくると言うのか。
母は訝しんでるぼくなどどこ吹く風で、楽しそうに笑っていた。
Fin
from the sky 霧沢夜深 @yohuka1999
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