5


「私は捨てられたのかもね」

 青が突然そんなことを言ったから、僕は何も言えなくなってしまう。

「警察の人が言ってたんだけど、今捜索願いが出てる人の中で私に該当する人物はいないらしいの。私の家族は私を探してないってことになるね。–––あるいは、そもそも私に家族なんていなかったのかも」

 僕は青の顔を見る。ここは病院内の食堂で、西側の壁は全面ガラス張りになっており海を一望できる。窓から差し込んでくる光は、彼女をその名と同じ色で照らしていた。

『え、じゃあうちで暮らす?』

 言いかけた言葉を飲み込んだ。我ながらバカなことを考えたものだ。家族が一人増えるのは口で言うほど簡単なことじゃない。両親は普通に家にいるし、妹は今年受験だ。現実はそうそうアニメのようにはいかない。

『きっといつか家族に会えるよ』

『そんなひどい家族なら忘れた方が良かったんだよ』

 いろいろな言葉が頭を巡ったけど、どれも適当ではないと思った。平凡に生きてきた僕が、彼女の心に寄り添うなんてそもそも不可能だったのではないか、とすら思えた。

「僕でよければ……僕でよければいつでも青の話し相手になるよ」

 だからそんな悲しそうな顔をしないでくれ。こんなことしか僕には言えなかった。

 でも。

「ありがとう」と青は答えて、それから微笑んだ。

 彼女が笑ったから、僕は救われたような気持ちになった。


 5


 ベッドの上で目を覚ました。

 私が最初にいたあの部屋ではなかった。照明は落とされていて、薄暗かった。だが、となりの部屋から光が漏れていて、私はそれを頼りにドアの前までたどり着いた。

 ドアの先は別の部屋だった。床中に紙が散乱していて、壁に備え付けられたホワイトボードには難解な数式がびっしりと書き込まれていた。

 部屋の中央には大きな机があって、そこに髪の長い女の人がこちらに背を向けてパソコンを操作していた。カタカタというキーボードの音のみが部屋の中に響いていた。彼女もやはり白衣を着ているようだった。

「あの……」

「ん……そうか、もう起きる時間か」

 女の人はそう言って振り返った。眼鏡をかけていて、その奥の瞳は濃い茶色だった。濃い茶色の瞳はアジア人に多いということを私は知っていた。事実その女の人はアジア系の顔立ちをしていた。

「座りなさい」

 女の人は立ち上がって私を椅子に座らせた。そしてとなりの部屋に向かい、しばらくして帰ってきた時には湯気が立ち昇るマグカップを二つ持っていた。そのうちの一つを私の前に置いた。

「飲みなさい。熱いから気をつけて」

 言われるままに私は口をつける。ココアだった。そう言えば私はお腹が空いて気を失っていたはずだが、今はそれほどではない。私が覚えてないだけで、この人が何か食べさせてくれたのか、それとも眠ってる間に点滴かなにかで栄養を補給されたのだろうか。

「飲み終わったら今日はもう寝なさい。まだ体力が完全に回復していないからな」

 女の人はそう言った。私はまだ聞きたいことがあったのだけど、女の人のいう通り体力が回復していないようで、眠気と疲労感が思い出したように襲ってきた。

 私は彼女に従って、ココアを飲み干すとベッドがあった部屋に戻った。ドアを閉めようとした時、どうしても気になって一番聞きたかったことを尋ねた。

「あの、どうして……私を拾ってくれたんですか?」

 女の人は考える素ぶりも見せず簡単に答えた。

「私に君が必要だったからさ」

 意味は分からなかった。だけど私はまたなぜか安心して、ぐっすりと眠ることができたのだった。


 次の日、目を覚ました時も女の人は相変わらず机に向かってキーボードを打っていた。まさか一晩中この調子だったのだろうか。

 一晩中、と言ったが私が最初にいた部屋もこの部屋にも窓がなかったので今がどのくらいの時間帯なのかはわからなかった。壁にかかっているデジタル時計を信じるなら、今は朝の9時のようだ。

「おはよう。体の調子はどうだ?」

 女の人はこちらも見ずに言った。気配で背後に立ったのがわかったのだろうか。

「あ……大丈夫……です。良好です」

 女の人は振り返ると私に何かを差し出した。それは、折りたたまれた一式の服だった。

「これに着替えるといい。いつまでもそんな服を着ておくわけにはいかないだろう」

 その時私が着ていたのは薄緑色の病院服のような服一枚だけだった。別にこれでも問題無いような気もしたが、女の人に従って着替えた。用意された服は下着の上下と白のブラウス、そして黒のフレアスカートで、ブラウスの襟には赤いリボンがついていた。

「サイズはどうだ? きつくないか?」

「いえ、ぴったりです。あの……それで、あなたは?」

 着替え終えた私は昨日の夜聞きたかったことを尋ねた。

「私の名は斎野藍いつきのあいというが、まあ『博士』とでも呼べばいい」

「はかせ?」

「ああ。そして、君のことはあおと呼ぶ」

「あお?」

 そういえば私は自分の名前も分からなかった。あの『試験』の時も名前を書いてないし、そもそも名前を書く欄がなかったような気がする。

 名前なんてなくても私のこと呼ぶ人なんてこの博士しかいないのだから問題ないんじゃないか。そうも思ったが、私は『青』という自分を表すその言葉に、不思議と愛着が湧いた。

「さっそくだが青、君にはやってもらわなければならないことがある」

 女の人–––斎野博士はそう言った。私は博士の昨日の言葉を思い出していた。

『君が必要だからだ』

 あれはひょっとして、私の労働力のことを言っていたのかと思った。衣食住を提供する代わりに召使いとしてここで働け、と。そういうことだろうか。だとすれば私は彼女に逆らうことはできない。

「……何をすればいいんでしょうか」

 博士は机の引き出しを開け、中に入っていた紙の束をどんっ、と机の上に置いた。

「お勉強だ」

「え?」


 5


 青と出会ってから一ヶ月近くが経ったころ。

 高校一回目の夏休みが終わり、始業式のために久し振りに学校に赴いた僕は驚いた。

 僕のクラスに一人の女子が転入してきたのだ。

鬼口青おにぐちあおと言います。皆さん、よろしくお願いします」

 青はそう言って教壇の上でぺこりと頭を下げた。うちの学校の制服を着ている青の姿はとても新鮮に見えた。

 放課後、周りに誰もいないのを確認して、僕は青を問いただした。

「一体どういうこと? それに、さっき言ってた苗字、あれって–––」

 青が名乗った鬼口という名前、それは青が入院している鬼口病院おにぐちびょういんと同じものだった。

「私ね、養子になったの」

「養子?」

 青がざっと話したところによると、鬼口病院の院長である鬼口氏の奥さんは子供に恵まれなかったらしい。そこで鬼口夫妻は身寄りのない青を引き取り後見人となったそうだ。そして、青はこの学校の編入試験にパスし、晴れてすることになったらしい。

「私が記憶を失ってることは秘密にしといてね。担任の先生とかは知ってるけど」

 もちろん誰にも言うつもりは無かった。青が僕と同じクラスになったのはまったくの偶然のようだった。


「ねえ、青ちゃんが前いたところってどんな場所なの?」

 青が転入してすぐの時、当然ながらクラスの女子たちに質問攻めに遭った。

 だから僕は青と二人で『鬼口青』の設定を考えた。以前の学校で入っていた部活動とか、彼氏の有無とか、わりと細かいところまで考えたが、休み時間に青が女子に話しかけられてるのを見るたびにハラハラした。結局それは杞憂で、9月の末にもなれば青は僕らのクラスに馴染んでいた。

 一方で、僕を含めてクラスのみんなは青の能力に驚かされることになった。9月に行われた全国共通の実力テストの結果、青は二位にかなりの差をつけて学年一位になった。それは誰もが二度見するような、漫画みたいな点数だった。

 青は控え目に言って『天才』だった。


「なあ綱介、聞いた? 鬼口さんの噂」

 ある日、友人は僕にこんなことを言った。

「え、なに? 噂って」

「鬼口さんが受けたうちの編入試験の結果。ほぼ満点だったんだと」

「満点……って……でも真実味あるね」

「だよな? ほんとなんでうちなんかに来たんだろうなあ」

 それは僕も疑問に思っていた。だから下校中に友人が言ったことをそのまま青に尋ねた。僕たちは最寄りの駅までは通学路が共通していた。

「なんでって?」僕の質問に、青は聞き返した。

「いやほら、青ならもっと頭のいい高校でも余裕で入れたんじゃない? うちって別に進学校ってわけじゃないし」

 うーん、と少し考えてから青は答えた。

「私としてはどこでも良かったんだよね、この学校は家からも近いし、それに……綱介がいるし」

「え……」

「あ、いや、ほら、知り合いがいた方が私も安心できるから」

 青は慌てたようにつけ加えた。

 そんなわけで僕が病院に通うことはなくなったが、僕たちはより身近になった。と言っても学校で話すことはあまりなく、下校中に会った時にたまに話すぐらいだった。青は養父母に携帯を買ってもらっていて、家に帰ったあとにそれで他愛もない話をすることもあった。

 昼休みにクラスメイトの女子と談笑する青の姿は普通の女子高生そのもので、その数奇な身の上など誰も知る由もなかった。僕以外は。


 5


 斎野博士の言う「お勉強」というのは、博士の母国語、日本語だった。

 私は博士の意図がまったく読めなかった。私が話せる言語は英語だけだったが、博士も流暢な英語を話せていたので、それで問題ないはずだった。だが、博士が『将来絶対に使う時が来る』というので、私は日本語を学ぶことになった。

 私は日本がアジアの東の端に位置する島国で、首都は東京、というようなことは知っていたが、日本語はまったくわからなかった。だから日本の子供達がするようにまずはひらがなとカタカナから覚え始めた。これはすぐに覚えることができ、2週間もすれば五十音をひらがなとカタカナですべて読み書きできるようになった。

 その次は当然漢字を学ぶことになった。私が一番はじめに覚えたのは『青』だった。私を表すその文字は色のブルーを意味する、と博士は教えてくれた。

 博士からもらった小学生用の漢字ドリルで漢字を学ぶ時以外は、博士の身の回りの雑用などをして過ごした。食事については私が最初の部屋で食べていたような携帯食料が大量に備蓄されていたので料理をすることはなかった。だから、床に散らばる数式で埋められた紙を片付けたり、服やベッドのシーツを部屋に備え付けられた洗濯機で洗ったり、とかそんなことをしながら毎日を過ごしていた。


 斎野博士は不思議な人物だった。なぜ私を助けてその上日本語を教えるのか、それもよくわからなかったし、基本的に無口で感情が読み取れない人だった。

 博士は食事と風呂(シャワー)と睡眠の時以外は基本的に机に向かって何かの計算をしているか、一番奥の部屋にこもっているかのどちらかだった。

 この奥の部屋には常に『do not disturb入室を禁ず』の札がかかっており、博士本人からも『勝手に入ってはいけない』と言われたので、中で何をしているのかは知らなかったが、何かを製作しているようだった。

 博士は一体何者なのか? それも気になることではあったが、私は一体何者なのか? と言うことのほうがずっと気になっていた。

 博士によれば、私の年齢は10歳、とのことだった。だが、私は107番までの元素を記憶していたし、第二次世界大戦が行われていたのは1939年から1945年の間ということも知っていたし、大まかな世界地図が書けたし、三角関数など数学の諸々の定理を理解していた。

 そして同時に、これらは普通10歳の子供が知っていることではない、ということもわかっていた。

 一体私はなんなのか。どうして記憶がないのか。日を重ねるごとにその疑問は徐々に大きくなっていった。


「ここは一体どういうところなんですか?」

 ある日、博士と一緒に食事をとっていた時に私はこう尋ねた。実は以前「私は何者なんですか?」と聞いたこともあったのだが、博士は「君は青さ。それ以外の何者でもない」と答えただけでなんの要領も得なかった。だから2番目に気になってたことを尋ねたが、まともな返答は期待していなかった。

研究所ラボさ」

 意外にも博士は私たちが暮らすこの場所についてすんなり教えてくれた。

 博士が言うにはここはある世界的な財閥が秘密裏に運営している地下研究施設、とのことだった。世界中から集められた科学者や技術者が日夜研究や開発に明け暮れているらしい。呼ぶ人間がいないのでこの施設には特に名前がなく、所属している職員たちは単に研究所ラボと呼んでいる。

「どうして『秘密裏』なんですか?」

「ロクでもない奴らが集まってロクでもないことをしているからさ」

 博士の話だとここに入所した人間の大半は、頭脳は申し分ないが性格や思想、倫理観に難を抱えており、表の世界で行き場をなくしてここにたどり着いたらしい。

 つまりここは科学の成れの果て、イカれた科学者マッドサイエンティストたちの巣窟だね。と、博士は言った。そういった科学者たちが集まって、表の世界では絶対できない完全に非合法な実験や研究に勤しんでいるのだと言う。

「非人道的な死刑囚に対して非人道的な人体実験をしてるやつもいるし、オカルトじみたことを真剣に研究してる連中もいる。大抵はガラクタと死体を量産するだけだけど、たまに有益なものが発明されることがある。そうやって得られた成果物を財閥が独り占め…って寸法さ」

「……博士のしてる研究も、なんですか?」

「私のやってる研究はそんなに悪趣味じゃないよ。……まあでも、ろくでなしっていう点じゃ私も他の奴らと変わらないがね」

 私はホッとした。博士がなんの研究をしているのか知らないし、教えられても理解できそうに無かったが、私には博士は自身が言うようななんかとは程遠い人間に思えた。


 博士に拾われて一年が経つ頃には、私は日常会話のほとんどを日本語で話せるようになっていた。

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