解答編

 0


 雲一つない晴天の、よく晴れた日だった。

 ぼくは海岸沿いの道を自転車で飛ばしていた。道が広く、海に面したこの町ではどこへ行ってもサイクリングにはうってつけだった。が、今日のぼくはあてもなく自転車を走らせていたわけではなく、待ち合わせ場所に向かっていたのだった。

 視界の右方向には青い海がどこまでも広がっている。この絶好のロケーションが町の自慢で、少し前に映画の撮影に使われたこともあるらしい。生まれた時からずっとこの町で暮らすぼくには見慣れた景色ではあるけれど、いつ見てもやはり爽快だった。

 とまあそんな風に夏休みを謳歌していたぼくだが、一時間くらい自転車を漕ぎ続けていたのでさすがに少しバテてしまった。すると、ちょうどいいタイミングで向かいの道に自販機を見つけた。

 自転車を停め、自販機で買った清涼飲料水を一気に飲み干し、携帯で時間を確認すると待ち合わせの時間まではまだ全然余裕があった。と、その時、高校の友人から電話がかかってきた。

「おっす。白杉しろすぎ? 今大丈夫?」

「大丈夫だよ。てか宮ちゃん今日補習じゃなかった?」

「さっき終わったとこ。いやーマジダリィわ。でね、白杉さ、次の日曜空いてる? なんか井口の兄ちゃんがさ、ライブのチケット余ったらしくて–––」

 ぼくは友人の言葉を聞くことができなくなった。目の前の光景に心を奪われてしまったからだ。視線は空の一点へと吸い寄せられる。


 空から、人が落下している。


「もしもーし? 白杉? 聞いてる?」

「ごめん宮ちゃん。掛け直す」

 電話を切ると、自転車に飛び乗った。海岸に降りれるところまで、一気にスピードを上げる。


 30


 私の一番最初の記憶は、ベッドに横たわる私を見下ろす数人の男たちの姿だった。彼らは皆一様に白衣を着ていた。

 目を覚ました私を見た彼らは口々に「素晴らしい」と言ったが、私には意味が分からなかった。

 ベッドから降りた私はすぐにその場にへたり込んでしまった。まるで初めて自分の足で歩いた赤ん坊のように、足に力が入らなかった。白衣の男の一人が用意した歩行器に縋って、やっと歩くことができた。

 その日は簡単な食事をして、そのまま眠った。次の日目を覚ますと、昨日の白衣の男たちの他にもう一人、新しい男が増えていた。しかし、彼だけは白衣ではなく黒いスーツを着ていた。

「この娘がくだんの?」

 私を一瞥した後、黒スーツの男は白衣の男の一人に尋ねた。

「はい。完全な成功例です」

 聞かれた白衣の男はそう答えた。

「成功かどうかはこちらが用意した試験の結果次第だ」

 感情のこもらない声で黒スーツの男は言った。私はわけが分からぬままこの男が用意したという『試験』を受けることになった。

 試験というのは学校で受けるようなペーパーテストで、私はほとんどの問題に答えることができた。授業を受けた記憶もないのに、問題文を読めば自然に解答が浮かんだ。

「ふむ、申し分ないな。いいだろう、『合格』だ。北ブロックの研究室へ移ることを許可する」

 私の試験の採点を終えた黒スーツの男はこう言った。それを聞いた白衣の男たちは歓喜に沸いた。私はますますわけがわからなかった。どうして私のテストの結果が良いと彼らが喜ぶのか。訳のわからないまま、その日も簡単な食事をとって眠った。

 次の日、目を覚ました私が見たのは、誰もいない部屋だった。昨日までいた白衣の男たちは一人もいない。もちろん黒スーツの男も。白い部屋には私以外誰もいなかった。そして私以外何もなかった。

 がらんとした部屋で私はしばらく一人でぼんやりしていた。ふと、昨日の黒スーツの男の言葉を思い出す。『北ブロックの研究室に移ることを許可する』

 あの白衣の男たちはこの部屋を捨て別の場所に移ったのだろうか。それならばなぜ私だけ連れて行かれなかったのだろうか。–––私も捨てられたのだろうか。

 私は部屋のドアを開けた。コンクリートむき出しの灰色の床と白い壁、天井、それを這う配管がどこまでも続いていた。

 私は歩き始めた。どこへ行けばいいのかわからないまま、自分が誰なのかもわからないまま、おぼつかない足取りで果てしなく続く白い廊下を歩き始めた。


 5


 海岸で彼女を見つけた時は本当に驚いた。波打ち際に倒れるその少女は、まるで童話の人魚姫のようだった。

 彼女を見つけた僕は即座に救急車を呼び、到着を待った。少女はぐったりとしていて意識を失っているようだった。

 僕は心臓マッサージをすべきだろうか、と思った。だろうか、というかすべきに決まっている。しかし……一つ問題があった。彼女はなぜか病院服のような服を着ていたのだが、その前がはだけて全開になっていたのだ。しかも彼女はその下に何も着ていないようだった。見つけた瞬間それに気づいて目をそらしていたが、心臓マッサージをするなら見なければならない。目をそらすわけにはいかない。というか押さなければならない、彼女の胸を。あと人工呼吸もせねばなるまい。

 いいのか……? いやいや何をバカなことを! 人命がかかってるんだ、今すぐ行わなければ! だが、もし心臓が動いていたら? だからそれを確認するためにも…。

 とか考えていたら救急車が到着した。そして救急隊員たちにより彼女は素早く病院に搬送された。最良の結末だった。心残りなど何もなかった。彼女の安否は気がかりだったが、ただの通報者である僕が病院に同行するわけには行かなかった。

 この出来事のおかげで僕はすっかり待ち合わせのことを忘れてしまい、思い出して慌てて向かった時には約束の時間をとうに過ぎていた。

 友人は僕を問い詰めたが、本当のことを言っても信じてもらえそうになかったので適当に誤魔化すしかなかった。


 それから一週間後のこと。

 その日、僕は町で唯一の総合病院を訪れていた。昨日さくじつ病院から電話があり、『あなたに会いたがっている人がいるから来て欲しい』と言われたのだ。

 僕は首を傾げた。この病院にはかつて僕の祖母が入院していたことはあるが、祖母はとっくに退院しており知り合いは今一人もいないはずだった。釈然としないまま看護師さんに促されて一つの病室に通された僕は驚いた。

 白い病室の白いベッドの上には一人の少女がいた。一週間前に海岸に倒れていたあの少女が。

 よく考えてみれば当然ではあった。町に大きな病院はここしかないのだからここに搬送されるに決まってる。僕はベッド脇の丸イスに腰かけた。案内してくれた看護師さんはいなくなり、病室には僕たち二人だけになった。

「えっと……」

 僕たちの間に微妙な沈黙が流れた。何か言わなければと思ったし、聞きたいこともたくさんあったが、変に緊張して言葉が出てこなかった。

「あなたに、ずっと会いたかったの」

「えっ?」

 先に口を開いたのは彼女の方だった。僕はそこで初めて彼女の顔をまじまじと見たのだが、彼女の肌は白く、目の色は明るい茶色だった。顔立ちはやや日本人離れしているようにも見えたが、流暢な日本語を喋っていた。何度も『少女』と言ってしまったが、よく見ると僕とさほど変わらない年齢に見えた。

「あなたが私を見つけてくれたんだよね? 本当にありがとう。なんてお礼を言ったらいいか……」

「いやそんな、当たり前のことをしただけだよ」

 と、一度言ってみたかったセリフを言ったあと、僕は彼女にこう質問した。

「ところで、君はどうしてあんなところに倒れてたの? ……あ、ごめん。僕は白杉綱介しろすぎこうすけっていう名前なんだけど君は?」

「……」

 僕に名前を聞かれた彼女は少し言い淀んだ。そしてこう答えた。

「……わからないの。何も、自分の名前も、経歴も、どうしてあんなところにいたのかも……」

「え……」

 彼女が話したところによると、彼女はこの病院に運び込まれてから三日間眠り続け、やっと先日になって意識を取り戻したが、自分にまつわる一切の記憶を忘れてしまっていたという。

「……」

 僕はなんと言ったらいいか分からず黙るしかなかった。彼女は続けた。

「だから、私のことはあおって呼んで」

「あお? あおって色のBLUEブルー?」

 少女–––青は頷いた。

「うん。私が着てた服にそう書いてあったの。だから先生も看護師さんも私のことは青って呼ぶ。案外本当にそれが私の名前なのかもしれないし」

「そうなんだ……わかった。そう呼ぶよ、青。あ、ご、ごめん急に呼び捨てなんて。青ちゃん? 青さん?」

 僕が慌てると、青は少し笑った。彼女の笑顔を見たのはそれが初めてだった。

「青でいいよ。……ごめんね。そういうわけで私は私について教えられることは何もないんだ。だから……こうすけ? だっけ? 君の話を聞かせてよ」

「僕の?」

 それから僕は彼女に聞かれるままに自分の身の上を話した。特にこれといった特徴のないただの高校生たる僕の話なんて面白くもなんともないだろう、と思ったが、彼女は興味深そうに僕の話に耳を傾けていた。気づけば、昼にこの病院に来たはずなのに、日がかなり傾いていた。

「……じゃあ、僕はこれで失礼するね」

「うん。ごめんね。こんなに遅くまで」

「全然大丈夫だよ。それじゃあ……」

「ねえ、綱介」

 帰ろうとした僕を青は呼び止めた。

「……また、ここで私と話してくれる?」

 僕は少し驚いたが、記憶を失い同年代の知り合いが今のところ僕しかいない彼女にとって、その願望は当然だと思った。

「もちろん! またね、青」

 青は顔を綻ばせた。

「うん、またね、綱介」


 病院を出た僕は、なんだか狐につままれたような気分だった。あまりにも現実感のない出来事だったからだ。次に病院を訪れたら病室ごと青が消えているんじゃないかとすら思えた。

 だが、一週間後に再び病院を訪れた時も青は変わらず白いベッドの上で僕を待っていた。そして、僕らはそれから週に一度この病院で会って他愛もない話をするようになった。


 5


 歩き始めてからどのくらい経ったのか、私には分からなかった。

 廊下はどこも同じような景色で、角を曲がっても曲がっても、変わりばえのしない風景だった。どこまでも続く灰色の床、白い壁、天井、それを這う配管。

 時折人とすれ違うこともあった。彼らは私が最初にいた部屋の男たちと同じようにみな一様に白衣を着ていた。私を見た人は皆驚いたような顔で一旦は立ち止まるが、しばらく眺めただけで何もせず立ち去った。私の方も何も言わなかった。なにかをして欲しかったのに、なんと言えばいいのかわからなかった。

 人の他には機械とすれ違うこともあった。車輪のついたそれは自動で走行していて、私が前にいても意に介さず、避けて廊下の向こうへ消えるだけだった。そういう意味では人間とさほど違いはなかった。

 ドアもたくさんあったが、どれも堅く閉ざされていて入れるものは一つもなかった。私が最初にいた部屋のドアも、もはやどれなのかわからなくなった。

 やがて、私は空腹と疲労で壁にもたれて床に座り込んでしまった。

 もう一歩も動けなかった。力が抜け、床に倒れる。頬にコンクリートの冷たい感触が伝わってきた。

 視界が徐々に霞んできた。なんとなくだが、このまま目を閉じたらもう開けることはないんだろうな、と思った。

 声が聞こえたのは、その時だった。


「そこにいたのか」


 女性の声だった。声の主は私を抱きかかえ、歩き出した。

 あなたは、誰?

 そう聞きたかったが、声も出せないほどに私は衰弱していた。だが、その人の体は温かく、私は理由もなく安心して眠ってしまった。

 これが、私と『博士』の出会いだった。


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