from the sky

霧沢夜深

問題編

 1000


 こんこんとした眠りから目を覚ました私だったが、せっかく取り戻したその意識を一体いつまで維持できるか見当もつかなかった。

 というのも、私は高度何千メートルかの天空から、地面に向かって真っ逆さまに落下している最中だったから。

 …

 ……

 ………

 いやいやいや私が聞きたい。なんなんだこの状況は。

 眼に映るものは青一色。そして風に弄ばれている三つ編みにされた私の黒い髪だけだった。雲ひとつない晴天の中、私一人がポツンと自由落下している。真っ逆さま、と言ったが、正確には地面方向を背にして仰向けの姿勢で落下しているので、背中一面に凄まじい風圧を感じる。

 とりあえず自分の体を見渡してみた(それしか見るものがないから)。私は入院患者が着るような薄緑色の病院服を着ていた。どう考えてもこの状況で着るのに適した服装ではない。じゃあどんな服がこの状況に適しているんだと聞かれたらそれはちょっと分からないが、ともかく防寒性はほぼ0で、だから風は容赦なく私の身体を突き刺していた。寒い。しかし、背中側は寒いが、表面はまんべんなく日光に照らされているので存外暖かい。

 ペラペラの病衣以外、私が持っているものは無いようだった。完全に身一つで落下している。

 空から魚が降ることがある。蛙だって降ることもある。怪雨ファフロツキーズと呼ばれるこのような現象は昔から世界各地で発生したそうだ。そうは言っても人が突然降ってくるなんて、さすがにそんな異常気象は聞いたことがない。

 これは一体、私の身に何が起きてるんだろう。

 ……ん? 私……?


 896


 驚いたことに私は自身に関する一切の記憶を失っているようだ。自分の名前はもちろん、経歴、趣味嗜好も全く思い出せない。かろうじて今この場でわかるのは女であることと、若いことぐらいだ。若いってだけで正確な年齢すら思い出せない。

 何度やってもさっき空中で目が覚めたところまでしか記憶を遡れない。アリストテレスが唱えたという自然発生説が実は正しくて、私が突然何もない虚空から今この瞬間誕生した可能性もなくはないが、限りなく妄想に近い仮説だ。

 これは困ったな。記憶がないんじゃ何故私がこんな状態なのかわかりようがないじゃないか。でもそのおかげで取り乱さずにいられるのかもしれない。

 そう、こんなにも異常極まる事態だというのに、私は妙に落ち着いていた。記憶をなくす前の私は非常に冷静な性格で、何があっても動じることのない人間だったのだろうか。

 自分で自分をプロファイリングしていることに気づき、私はなんだかおかしくてにやけてしまった。自分自身のことなのに、他人について考えているみたいだ。人というのは記憶でも無くさない限り自分を客観視することなんてできないのかも知れない。

 まあ記憶が戻らないんじゃどうしようもない。万有引力に身を任せてこのまま落下して行くしかないな。……

 ……おや?


 702


 考えてみれば、いや考えるまでもなくは自明のことで、なぜもっと早く気づかなかったんだと不思議でたまらない。気づいたところでどうしようもないとも言えるが。

 このままだと、私、死ぬんじゃないだろうか。

 こんなに長い間思考が続くほどの高さだ、少なくとも怪我では済まないだろう。普通に考えれば即死。いやひょっとすると衝撃で私の体は跡形もないぐらいにぐちゃぐちゃの肉塊になってしまうことも十分考えられる。

 そうですか。肉塊ですか。

 じゃあどうする? パラシュート? ない。詰みだ。私の死はもはや確定的だ。

 そうですか。確定ですか。

 依然、私は冷静だった。自分が高確率で死ぬと分かっても、それもできることなら避けたい壮絶な死に様になりそうなことがわかっても。

 冷静すぎる。人として、生物としてこれはおかしい。もっと動揺して、喚いたり、泣いたりするのが普通ではないのか。記憶を失う前の私は一体どんな人物だったのだろう。

 私は死ぬことよりも、あまりにも人間味のない私自身に対して背筋が寒くなった。いやさっきからずっと寒いんだけど。

 気圧のせいか鼓膜に違和感がある。余命はあと何秒だろうか。


 635


 自分について考えるのはやめにした。忘れる方が幸せなこともあるだろう。

 と言ってもただ落ちていくのは退屈なので、ここはひとつなぜ私はこんなことになったのか、その理由を推理してみよう。やることができたら少し元気が出た。人生残りわずかながら張り切って行こう。

 目が覚めると空から落ちていた。しかも記憶はない。改めて考えたら異常事態すぎる。これに納得のいく答えを見つけるには、「海亀のスープ」並みの想像力が必要だな。

 まず考えられるのは他殺だろうか(一応まだ死んでないが)。私は誰かに憎まれこの大空に突き落とされたのかもしれない。だとすれば相当大きな憎しみだ。何をしたのかは知らないが、私は殺されて当然なのだろうか。いや、私には何の非もなくて、逆恨みや謀略によって殺されるのかもしれない。そうだとしても記憶がないので誰も恨めないが。

 他殺でなければ自殺…という線も考えられる。何か事情があって私は自ら空に身を躍らせたのかもしれない。事情…こんな性格だし、私は周囲と馴染めず迫害されていた可能性も大いにある。あるいは冷静さが過ぎて、人生は無意味と悟り早々に切り上げようと思ったのかもしれない。

 そういや私は病衣を着ているな。病人だったのか? 不治の病でも抱えていたのだろうか。 今のところ体に不調は感じられないが、どの道わたしはもう長くなくて、それを悲観したのかも。

 事故、なんてこともあるか。スカイダイビング中……には到底見えない。乗っていた飛行機が事故で……それなら他にも人がいないとおかしい。

 実は私は人じゃなくて、神の命で地上に降り立つ天使だった、というのはどうか。それならこの状況に動じないことの説明もつく。

 冗談を考えてる暇はなかった。色々と思い巡らしてみたが、どの仮説も私が意識と記憶を失っていたことを説明できない。行き詰まった私は性懲りも無く記憶を辿ってみた。

 結果は同じ。私の脳裏に浮かぶのは深い青色だけ……。


 ……?


 478


 冷静だと思っていたが、ひょっとすると私はただ愚鈍なだけなのかもしれない。こんな重要なことを見落としていたなんて。

 目が覚めてから今まで、私が見ていたのは蒼穹そうきゅうの深い青、ただそれだけだった。他には何も、雲さえ見えず、風を切る音以外は何も聞こえなかった。

 、私を運んでいた飛行物体が存在しないなら、私は突然、何の脈絡もなく、この空のまにまに出現したことになる。私の頭にアリストテレスの自然発生説が再び想起した。

 ありえない。分かっている。だが事実としてそうなのだから仕方ない。

 音速で滑空する飛行機から落ちれば、飛行機は見えなくなるのではないか。この仮説を私はすぐに否定した。そもそも高速で飛行する乗り物から落ちれば、風に煽られもみくちゃになる。私の体は安定していて、地面に対してほぼ垂直に落ちていた。

 突然現れでもしない限りそんなことはありえない。ありえないことが、今まさに起こっている。

 一転して事態はオカルトじみてきた。まさか天使説が最有力候補になろうとは。


 319


 もう考えるだけ無駄だろう。奇妙の度が過ぎている。人間の手に負える出来事じゃなかったようだ。もう何も考えず落ちよう。天国があるならそこで答え合わせだ。

 だが落ちると言っても今私はどんなところに落ちているのだろう。地面は背後なので分からない。

 人口が多いところだったらと思うとぞっとする。誰かを巻き込んでしまうことになりかねない。運良く(?)死ぬのが私だけだったとしても、ぐちゃみその死体というえげつない物を周囲の人に見せてしまうことになる。

 落ちるなら人がいない所に限る。ジャングルとか雪山とか砂漠とか、でも誰にも発見されないのもそれはそれで寂しい。第一発見者には申し訳ないが、いずれ見つけてもらいたい。

 空は依然として青く、徐々に高くなっていく。「今日は死ぬのにもってこいの日だ」とはどこの国の挨拶だっけ。


 126


 私はどんな顔なのだろう。ふと気になった。真っ青な脳内には誰の顔もない。もちろん自分の顔も。残念だがもう見ることはできない。

 可愛かったらいいな。そういえば私は年頃の女の子のようだ。運が良ければ顔は潰れずに残るかもしれない。

 顔は分からないが私は髪が長い。自分で言うのもなんだが黒く艶めく美しい髪だった。この状況ではうっとおしいことこの上ないが。

 私も人間なら親がいるのだろう。こんなに早く死んでしまっては、両親も悲しむに違いない。申し訳ないが、どうしようもない。兄妹は、友人は、恋人は? 私が死ぬことで泣いてくれる人がどのくらいいるのだろう。記憶が無くなっていて良かったと初めて思った。

 私の死を悼んでくれるなら、その人にお礼が言いたい。ありがとう、あなたがいたなら、私の人生はきっと幸せだったはずだから。


 83


 そろそろか。私は来るべき瞬間に備えて目を閉じた。だがすぐに目を開けた。私の着ている病衣、その紐が緩んで解け、前が全開になってしまったのだ。

 驚いたことに私は下に何も着ていなかった。理由は知らないが下着くらいはつけるべきだぞ。私。とにかくこんなあられもない姿で落ちていくわけにはいかない。私はなんとか裾を掴んで紐を結び直そうとした。だが、風に翻るそれはなかなか捕まえることができない。

 と、その時、私は服の裏に、タグのようなものが縫い付けてあるのを発見した。


『青』


 そう書いてあった。

 その文字を見た瞬間、私の中で何かが爆ぜた。青一色だった脳内に次々と映像が浮かんできた。


 66


 白い廊下。角をいくつ曲がっても、変わらない景色。


 49


 紙が散乱する部屋。こちらに背を向けて椅子に座っている人。


 30


「素晴らしい」

「素晴らしい」

「素晴らしい」


 14


 あなたは、誰?


 9


 私は、わたしという人間は–––


 1


 背中に衝撃が走る。落下したようだ。


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