黒–1

 6


 青は確かに超がつくほどの天才だったが、その反面変なところで抜けてるというか、世間知らずなところがあった。

 例えば、青は全国的なチェーン店のカフェを知らなかった。下校中に一度一緒に寄ったことがあるのだが、初めて来店したといい、それまでその存在を知らなかったようだ。

 さらに、日本人なら誰でも知っているようなタレントやアイドルも、青はほとんど知らなかった。昼食中にその話題になった時にまったくついていけず、一緒にお弁当を食べていた女子たちは驚愕していた。このことから一時期『鬼口青は実は帰国子女なんじゃないのか説』が流れた。青は英語の成績が特にずば抜けていて、ネイティブ並みの発音で英文を読めたためこの噂はますます信憑性を増した。

 僕は最初、記憶を失っているからだろうと思っていたが、学校の勉強に関する記憶は残っているのにアイドルやらの記憶だけ失うとは考えにくかった。しまいには僕ですら帰国子女説を信じてしまいそうになった。


「なにそれ。私は外国からあの海岸に流れ着いたってこと?」

 下校中、僕からその説を聞いた青はおかしそうに笑った。

「それだと、こんなに日本語が話せるのがおかしいよ」

「うーん…確かにそうだね」

「ねえ、それよりさ。この間言ってた映画観たよ。面白かった」

「あ、ほんと? 良かった。けっこう暴力シーンあるし、勧めるのはどうかとも思ったんだけど……」

 映画鑑賞とサイクリングが、数少ない僕の趣味だった。ただ、僕の好きな映画を知っている人は友達の中にはいなかったし、だからといって勧めることもできなかった。でも青だけは僕が勧めた映画を必ず観てくれて、感想を共有できるのだった。

 映画と自転車が、僕らの話題の中心だった。

「綱介は昔の映画が好きなの?」

「どちらかと言えばそうかな。でも新作を映画館で観るのも好きだよ」

「この近くに映画館なんてあったの?」

「駅二つぐらいのところに大きなショッピングモールがあるんだけど、その中に映画館があって、たまに行くんだ。……でさ、青が良ければ、なんだけど、今度の土曜、一緒に映画観に行かない? そこに」

 僕にとってはけっこう冒険だった。でも青は「うん! いいよ」と二つ返事で了承し、僕たちはその週の土曜日に映画館へ行った。

 それは人気の漫画を実写化したものだった。青はその原作を知らなかった。が、いずれにしてもその映画はめちゃくちゃ面白くなかった。観終わった後、モールの中のファミレスで、青と二人で笑いながら映画の感想を話し合った。


 7


 博士に拾われて2年が経つころには、私は大体の漢字が読めるようになっていたし、日本語も大分流暢に話せるようになっていた。最初は苦手だった箸の持ち方も様になってきた。

 部屋の中を片付け、洗濯をし、新しい漢字やことわざなどを覚える。毎日がその繰り返しだった。だからと言って特に不満があるわけではなかった。

 その日、私はいつものように机に向かって日本語の問題集を解いていた。博士もいつものように奥の部屋でなんらかの作業をしていた。

 突然、部屋の中にノックの音が響いた。私はとても驚いた。ここで暮らし始めてから誰かが出入り口のドアをノックしたことなど一度もなかったからだ。

 部屋を訪れるものと言ったら配給ドローンだけだった。私がかつて廊下で出会ったあの自走する機械は、各部屋に食料や注文した品を届けるこのラボの設備の一つだった。これがあるおかげでここの職員たちは滅多に部屋の外に出ることはない。月に1、2回ほど現れるそれは、ドアの前まで来ると内臓されているブザーを鳴らして来訪を知らせるので、ノックなんてするはずがなかった。

 つまり、今ドアの外にいるのは確実に人間ということになる。私は恐る恐るドアを開けた。

「やあ! ドクター・イツキノはいる? ……君じゃないよね?」

 そこに立っていたのは金髪で坊主頭で丸メガネをかけた白人の男性だった。彼は当然ながら英語でそう聞いた。何が楽しいのか、やたらと声が大きかった。

「……博士は……いますけど今手が離せません」

 私は久し振りに英語で会話した。というか博士以外の人間と会話するのはこれが初めてだった。私の答えを聞いた白人の男は大げさなリアクションでこう言った。

「オー! 僕はなんてタイミングが悪いんだ! いっつもこの調子だ! ……ところで、君は? ドクター・イツキノの助手? 妹? 娘? 姪?」

「えっと……助手……です」

 男の勢いに圧倒されながらも私はそう答えた。実際は助手どころか博士がなんの研究をしているのか未だに知らなかったのだけれど、私と博士の関係性を説明するのが難しかったのでそういうことにしておいた。

「へえー、君みたいな子供を助手にするなんてドクター・イツキノは変わってるね」

「……あの、博士に何か御用ですか? 大事な要件なら私が後で伝えますけど」

「ああ、いや、用事があったわけじゃないんだよ。僕は彼女に彼女の研究についてご教授願いたくて、こうして訪れたんだ。オー! 失礼! 言い忘れていたけど僕の名前はクレスだ。よろしく、えーと……」

「私は青です。博士にご教授願いたいって、どういう意味ですか?」

「どうってそのままさ。このラボ始まって以来の『天才』と会話できたら、素晴らしいインスピレーションが生まれるはずさ! 君もそう思わないか?」

「ちょっ、ちょっと待ってください。なんですか? 『天才』って」

「オー! 知らないのかい? 助手なのに? 彼女は最年少でこのラボに入所したんだよ。10代でここに入所できたのは今のところドクター・イツキノただ一人だ」

「……」

 私は驚いて絶句した。博士と2年も同じ部屋で暮らしていながら、そんなこと初めて知った。クレスは続けてまくし立てる。

「僕は彼女と同じ大学だったんだけどね、学生の頃から彼女の華々しい業績は聞いていたよ。だが彼女はある時期からぷっつり消息を絶ってね。案の定ここへ来ていたというわけだ。僕は最近ここに入所したばかりなんだけど、入所できたら彼女に会いに行こうと決めていたんだよ」

「……このラボに、そんなに他人に興味がある人がいたなんて驚きですよ」

 ここの人間は基本的に互いに不干渉だ。なぜならみんな自分らの研究にしか興味がないからだ。一応ラボ内には『憩いの場』と銘打たれたラウンジやジムなどもあって、私もたまに利用するのだが、いつも閑散としていてグループで利用している者などほとんどいない。ぶつぶつとなにかつぶやきながら歩き回ってる奴がまばらにいるだけだ。存在する意味あるのか、と訪れるたびに思う。

「オー、そうなのかい? 確かに挨拶しても誰も返してくれないな……んん? というか……」

 突然クレスが私にぐっと顔を近づけてきたから私はぎょっとした。なんなんだこの男は一体。変人揃いのラボの中でも、別角度の変人だ。

「君……アオっていったっけ? どこかで会ったことはないか?」

「は!? ……いえ、絶対無いと思いますけど…」

「いや……僕は君の顔に見覚えがある。僕が以前君をどこかで見かけたことがあるのかな? ……もっとよく見れば思い出せそうなんだが……」

 そう言いながらクレスは私の顔を両手で掴んだ。そして覗き込むようにさらに顔を近づけた。私はぞわっと全身が粟立つのを感じた。

「い……いやっ!」

 私は反射的にクレスの股間を思いっきり蹴り上げてしまった。クレスは短い悲鳴をあげ、その場に倒れこんだ。

 股間を抑えて悶絶するクレスを見ながら、私は少し気の毒な気持ちになった。とっさのこととは言えやりすぎだっただろうか。とはいえ私にはどうすることもできないので、「お大事に……」とだけ言ってドアを閉めた。

 部屋の中にはいつのまにか博士がいて、机に座ってコーヒーを飲んでいた。

「なにかあった?」

 博士がそう聞いたので、私はことのあらましを説明した。

「やっぱりあとで謝った方がいいでしょうか?」

「いや、よくやった」

 博士はそう言った。

「……というか、博士ってこのラボの中でもすごい人だったんですね」

「ん、まあね」と、こともなげに博士は言った。

 結局その後、クレスが再び訪れることはなかった。–––その日は。


「やあ! ドクター・イツキノはいる?」

「……」

 ノックの音がしたからまさかとは思ったが、ドアを開けるとクレスが立っていた。あんな目に遭ったと言うのにこの男は昨日とまったく変わらぬ調子で私たちの部屋を訪れた。

「えっと……今日も博士は手が離せません。……あの、昨日はすいませんでした」

 一応私は昨日のことを謝っておくことにした。だが、

「昨日? なんのことだい? 僕たちは初対面だろう?」

「は……?」

 クレスはふざけているわけではなく、本当に私の言っていることがわからないようだった。昨日の記憶が完全に抜け落ちているようだ。

「オー! なるほど! わかったよ! それはきっとこいつのせいだな」

 そう言うとクレスは着ていた白衣のポケットから一つの小さいガラス瓶を取り出した。中には一粒がかなり小さい水色の錠剤がたくさん入っていた。

「それは?」

「これは僕が開発した記憶除去薬さ。『forget me notフォーゲットミーナット』と名付けた。クールだろ?」

「記憶……除去……?」

「ああ、こいつを飲んで眠れば、過去の記憶を完全に忘れることができる。……もっとも作ろうと思って作ったものじゃなくて、副産物的にできてしまったんだがね。だから、効果に関しては僕自身にもよく分からない部分がある。どのくらい飲めばどのくらい忘れるのか、どのくらい忘れたままでいるのか、とか」

 どうやらクレスは人間の記憶力に関する研究をしているらしい。かつてある実験中に偶然この薬が完成したらしく、それが財閥の目に留まりこのラボに入所できたという。

「ふむ、どうやら僕はこれで昨日の記憶を自ら消したようだが……妙だな、僕は滅多に自分自身にこの薬を使うことはないんだけど……どうしても忘れたいような出来事でもあったのかな? 君、なにか知ってるかい?」

「……」

 仕方なく私は昨日の出来事をクレスに説明した。

「……で、私、驚いて、あなたを……んです」

「オー! それは失礼した! 不躾なことをしたようだね、大変申し訳ない。僕は一旦なにかが気になると周囲のことなどどうでもよくなるタチでね」

「はあ……」

 不躾、というレベルではないような気がするが、クレスもそういうところは他の研究員と同じなようだ。

「しかし……確かに、言われてみれば君の顔には見覚えがある。どこかで確実に見たはずだ……」

「昨日も言いましたけど、記憶違いだと思いますよ。あるいは私によく似た人かも」

「いや、記憶に関する研究をしているから、というわけじゃないが記憶力には自信があるんだ。僕は絶対に以前君の顔を見たことがある……しかし、どこで……?」

「……あの、斎野博士に会いに来たのでは?」

「オー! そうだった! 彼女は?」

「ですから今手が離せません」

「オー! なんてこった! なんてタイミングが悪いんだ! いっつもこの調子だ!」

「昨日も同じこと言ってました」

「じゃあ、今日のところは失礼するよ。また来るけどね」

 そう言ってクレスは帰った。私はなんだか疲れて部屋に戻った。


 次の日、クレスは三度みたび現れた。

「やあ」

「すいません。今日も博士は…」

「いや、今日は君に会いに来たんだ」

 クレスは言った。私はきょとんとした。

「私に……?」

「ああ、昨日部屋に戻ったあと、やっと思い出せたよ、君の顔をどこで見たのか」

 クレスはそう言って手に持っていたノートパソコンを起動した。画面には英語の文章が写し出されたが、ちらっと見ただけでも難解そうな内容だった。

「これはこのラボのデータベースだ。今までこのラボで行われた全ての研究が記録されていて、職員なら誰でも閲覧できる」

「それが……?」

「ここに入所してすぐのころ、僕は暇なときにこのデータベースを斜め読みしていたんだが、その時見つけたんだ。このページを」

 クレスはタブレットを操作して、私にそのページを見せた。

『天才児創造計画』と名付けられたそのプロジェクトは、内容を見てもなんのことやらわからなかったが、私は添付されている一枚の画像に釘付けになった。

 培養液のような緑色の液体で満たされたカプセルの中には一人の少女が浮かんでいる。呼吸器を取り付けられ、頭におびただしい数の電極を繋がれたその少女は、紛れもなく私だった。


「要約すると、クローン人間を製作し、そのベイビーにあらかじめ様々な知識をインストールして人工的に『天才』を作ろう、といったような研究だね。君はその成功例第1号というわけか。しかしまあ、さすがに難航したようで、全てのインストールが完了して君が目覚めるまでに10年かかってしまったようだが」

 クレスの言葉を聞きながら、私は視界が黒く染まっていくのを感じた。

 人工的に作られた? 私が? 私が最初に目覚めたあの部屋、あそこにいた白衣の男たち。彼らが私を作ったのだろうか。

「歴史をひっくり返すような天才児ではなかったけど、この験体–––君のことだね–––は財閥が用意した『試験』に合格して、この研究チームはさらに設備の整った北ブロックの研究室に移った…ということらしい。今はそこで、さらに年齢が若く、さらに知識量の多い『天才児』を作ろうとしているようだね」

 私は彼らの研究の成果物だった。ということらしい。

 彼らは私を生み出したことでさらに好待遇を受けられることになった、ということらしい。

 私には記憶がないのではなく、そもそもあの最初の部屋で目覚めた時から始まった、ということらしい。

 私を作った彼らは、グレードアップした新たな研究を始めるから、私はもう要らなかった、ということらしい。

「オー! やはりこのラボはすごいな! 人工的に天才なんて作ってなにがしたいのか知らんが、こんなの表の世界では絶対できない! 君だって普通の人間にじゃないか! 素晴らしい! 科学者ぼくらの楽園だなここは!」

 クレスは一人で勝手に興奮していた。私はもはや平衡感覚を失いかけていた。

 私は人間ではないのか? じゃあ…じゃあ一体

 脚の力が抜け、私はその場に倒れそうになった。だが、誰かが私を支えてくれた。

 博士だった。

「オー! ドクター・イツキノ! ずっと貴女に会いたかったんだよ! ところで、どうしてその子は君のところに……」

「帰れ。二度と来るな」

 斎野博士はそれだけ言うとバタン、とドアを閉めた。


「青……」

 博士の声がしたが、隣にいるはずの博士の声がどこから聞こえたのかその時の私には分からなかった。

 急に吐き気がこみ上げてきて、私はトイレに駆け込み胃の中のものを全てぶちまけた。

 様々な感情が頭の中に濁流のように流れていた。怒り、疑問、焦燥、悲しみ、不安、不安、不安、ひたすら不安と恐怖。

 自分が何者なのか分からなくなってしまった私は立つことすらままならないほど混乱していた。私は人間なのか、人間じゃないならなんなのか。生まれながらに知識をインプットされたなら、今ここでこうして不安を感じている『私』とは一体なんなのか。

 なにもわからなかった。脳みそがかき混ぜられたようになにも考えることができなかった。

「青」

 声がする。見上げると博士が立っていた。

「……教えてください……博士……私は……一体何者なんですか?」

 博士に聞いても仕方のないことだとはわかっていた。だが、聞かずにはいられなかった。

 博士は、なにも言わずに私を抱きしめた。博士の体温が私に伝わってきた。

「は、博士……?」

「君は人間で、君は青だ。それ以外の何者でもないんだよ」

 いつかの言葉を博士は繰り返した。

 私は泣いた。生まれて初めて、声の限り泣き叫んだ。


 博士は、私が泣き疲れて眠るまで、ずっと私の髪を撫でていてくれた。

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