Ⅱ
「――聞いたぁ?
午後の授業も終わって下校の時間。校門まで数メートルといったところで、後ろから追いついてきた
「霊のやつ?」
「字がちっが~う! 字が!! 『例え』と書いて『例のやつ』よ、って琴音! わかっててやってるでしょ!!」
雫がキー! と言いながら
(――相変わらず、からかい甲斐のある娘だわ)
クスクスと笑いながらそう思いつつ、
「ごめん、ごめん。それで? 例のやつって?」
真面目な顔に戻して(口元には笑いの余韻が残っているが)改めて
「だから! "白銀の歌姫"のことよ!!」
雫は手足をじたばたさせながら、興奮気味に
「――あぁ、彼女か」
いつの時代にも必ずと言っていいほどある噂話。トイレにいる小さな女の子や『私、きれい?』と訊ねてくる女性の話。謎の秘密結社や埋蔵金などなど。
不意に聴き慣れない
大勢の人が目撃したかと思えば、大勢の中の一人だけにしか見えなかったとの話もある。
自室で、学校や会社で、電車やバス、飛行機、大きなライブ会場、時にはスマホの
その歌声は清らかな聖女のようなとか、澄んだ透明感のある声だとか、少しかすれた大人のハスキーボイスだったなどさまざまだ。
曰く――透き通るような白い肌に背中まで流れる白銀の髪だった。
曰く――髪にはリボン、首元には黒のチョーカーをしている。
嘘か
メル・アイヴィー。それが
いつの頃から、どうやって噂が生まれたのかは誰も知らない。元々、噂というものはそういうものではあるが、一時期、どこかの
「どこで見たって言ってるの?」
「湾岸線のベイエリアにあるカフェだって。夜の7時前って言ってたかな? なんか海辺の街灯の下に女の人の影がぼーっと立ってたんだって!」
「ぼーっとって……。それって、単に海を見てたとか、誰かと待ち合わせをしてたとかってことじゃないの?」
「そんなことないってば! だってその人、柵の向こう側、海側に立ってたって恵、言ってたもん!」
「それは――変ね。というか、変過ぎる気もするけど……。歌は? 歌は聞こえたって言ってた?」
「へ? あ、そういえば歌のことは言ってなかったなぁ。あと黒髪でワンピースじゃなくて、白い着物みたいなの着てたって言ってたっけ……あれ?」
自分で話していて、噂の歌姫とは特徴が違うことに気付いた雫は、左手で右肘を支えつつ、右の人差し指で口元を押さえながら首を
「それって、どう考えても本物じゃないの?」
「あぁ! ほ、本当だ! どうしよう、琴音!?」
急にオロオロしだす雫。
「落ち着きなさい。別にどうもしなくていいわよ。あなたが直接見たわけじゃないんだし」
苦笑を浮かべて雫を
(――きっと恵も、雫のことをからかったに違いないわ。まったく、困ったものね)
自分も、しょっちゅう雫をからかっていることは、高い棚の上に置いておく。
「そ、そう? うん。そうだね。琴音が言うなら間違いないよね! よかったぁ!」
「でも、そういうことなら『霊のやつ』であってたんじゃない」
「あっ! 本当だ! 琴音ってば、すごいー! もしかして霊能力者!?」
琴音は「単なる偶然よ」と軽く流しながら、校門へ向けて歩き出す。
「雫はこれからバイトなの?」
「うん! 欲しいバッグ見つけちゃったから、がんばらないと!――琴音は……病院?」
雫は少しだけ顔を曇らせると、聞きにくそうに
そんな雫を見て"気にしないで"という意味も込めて優しく笑う琴音。
「うん。今日も会いに行って来る」
♭
大きな窓からは綺麗な夕日が見え、暖かいオレンジ色の光が注ぎ込み、三階という高さのおかげか心地よい風も入ってくる。ただ、この部屋の主にとっては少々身体に
天井も壁も基本は白で整えられた部屋。カーテンは淡い水色、戸棚などはライトブラウン、フローリングも明るい色調のベージュが使われている。
10畳ほどの部屋にベッドが一つ。シーツと布団は清潔感溢れる純白。そしてベッドの上には少年が眠っていた。
歳の頃は10代の半ば――中学生、もしくは高校生くらいだろうか。透けるように白い肌は、少年がここにいる歳月が決して短くないことを物語っている。
窓際に置かれていた椅子をベッドの
琴音はその乱れた前髪をそっと優しく整えると、
優しく。
愛おしく。
この程度では少年は目を覚まさない。名前を呼んでも、強く揺すっても起きることはない。琴音はそれをよく知っている。ずっと前から。
「――あら?」
すべすべと心地良い肌触りだった頬に、ほんの
成人男性のそれとは
「何よ、気付かないうちに男の子しちゃって。生意気な」
琴音は「こいつめ、えい、えい」と呟きながら頬をつつく。その瞳には大きな喜びとほんの少しの
少年がちゃんと成長していることへの喜びと、それほどの歳月がたってしまったことへの哀しみ。
琴音は少年の腕を布団からそっと出すと、その手を両手で包み込む。
「ラーラーラー、ララララー、ララ、ララララー」
少年の顔を見ながら琴音は歌う。
想いをのせた言の葉は、祈り
部屋が
ふわり、と髪を
琴音は別に驚かない。雫には悪いが、ずっと前から
「こんにちわ、
彼女は応えない。ただ
♭
初めてメルが現れたのは三、四年ほど前だっただろうか。
子供の頃から通っている病院の一室。少年に会いに来るたびに琴音は彼にいろんなことを話した。
学校での出来事。友だちとの他愛ない会話。見かけた野良猫が近寄ってきて膝の上に乗ったこと。男の子に告白された――なんてことも話した。
日々移りゆく季節。
片時も
この病室だけが
ふと、ある
「んー、んんー、んー」
一緒にいた頃を思い出して。
一緒にいたいと想いを募らせて。
気がつけば、目の前に一人の少女がいた。
白銀の髪に碧い瞳。自分より少し年上な感じがする大人びたその少女は、何をするでもなく、その澄んだ碧い瞳でじっと見つめてくる。
(――綺麗な人)
不思議と恐怖は感じない。そこに
その時はまだ"白銀の歌姫"のこともメル・アイヴィーの名前も知らなくて『誰?』と訊ねてみたが彼女は何も語らず、
それから時々彼女を見かけるようになる。
たまに自分の部屋の時もあったがほとんどが病室で、それもいつもというわけでもない。最初の頃はわからなかったが、彼女が姿を現す時は、鼻唄を歌っているときやスマホで音楽を聴いているときなど"音楽"に触れている時が多いことに気が付いた。それからはベッドで眠る少年と、イヤホンを片方ずつ分け合って音楽を聴くようにした。そうすることで三人で時間を共有出来ると思ったから。
そして
日々のゆっくりとした変化ではあったが、痩せ細っていた身体は徐々に肉付き始め、枯れ木のように乾いた肌は
音楽療法というものがある。これは音楽の力で怪我や病気を治す――というものではなく、あくまで通常治療を補助するという意味での治療法の一つだが、少年の担当医師は「
もちろん、医者が言うことなのだがら音楽療法が功を奏した、ということなのだろう。でも、と琴音は思う。誰も目にすることのない銀の髪の少女が現れたからだ、ということが琴美には何故か理解できた。
♭
あれから数年がたって、琴音と少年は歳を重ねた分だけ大人になった。だけど目の前に静かに
ネットなどでメルについて調べてみたことがある。"都市伝説"として広まっているのは日本ばかりではなく、世界の多くの国々で"メル・アイヴィー"の名前は広まっていて"
音楽に触れている人、誰もがメルのことを見えているわけではないらしい。実際、琴音自身もいつも見えているわけではなく、むしろ見えていない時の方が多いくらいだ。心当たりがあるとすれば、その時の"心理状態"が関係していると思う。
例えば、どういう気持ちで音楽を聴き、どういう想いで
ただ単に音楽を聴いているときではなく、少年を想っているときにメルは現れているように思えるのだ。
誰かが言った。
だから歌う。
誰かが言った。
だから歌う。
今は春。
すべての新しい命が芽吹く
今日は生誕の日。
世界が少年を迎え入れた日。
だから琴音は歌う。
「一緒に
彼女は応える。
『――私は
噂どおりの、否。それ以上の美しい
言の葉には力が宿り、
メル・アイヴィーの奏でる
碧い瞳は閉じたまま
琴音もまた、少年の手を握り締めたまま、祈るように目を閉じて、微かにあご先を上に向ける。
メル・アイヴィーと琴音の
二人で一人。
想いを届けたいという、
一瞬と永遠の
気付けばトツトツと窓を叩く音が聞こえる。
「――雨、降ってたんだ」
少年の手を握ったまま、振り返るように視線だけを窓の外に向ける。
ポツポツと雨は降っているようだが、雲はほとんどなく空は
「――天気雨」
ぽつり、と呟いた時、少年の指がほんの
琴音は、ハッとして少年の顔を見つめた。心なしか頬に赤みが差しているようにも見える。
「もう……いい加減、そろそろ起きないと――ね?」
頬を伝う涙が、夕暮れの光をキラリと弾く。
そう遠くない未来、きっと少年は目を覚ますだろう。その予感が琴音の胸を熱くする。
『その時にまた、
ふと、そんな
いつの間にか
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