「――聞いたぁ? めぐみが見たんだって。例のやつ!」


 午後の授業も終わって下校の時間。校門まで数メートルといったところで、後ろから追いついてきたしずくが声をかけてきた。

 琴音ことねは足を止め、両腕の肘を曲げて胸元の前で手首をぷらん、とさせる。そして、ふるふると揺らすと小声で『うらめしや~』とつぶやいてみせる。


「霊のやつ?」

「字がちっが~う! 字が!! 『例え』と書いて『例のやつ』よ、って琴音! わかっててやってるでしょ!!」


 雫がキー! と言いながら地団駄じたんだを踏む。


(――相変わらず、からかい甲斐のある娘だわ)


 クスクスと笑いながらそう思いつつ、


「ごめん、ごめん。それで? 例のやつって?」


 真面目な顔に戻して(口元には笑いの余韻が残っているが)改めてたずねる。


「だから! "白銀の歌姫"のことよ!!」


 雫は手足をじたばたさせながら、興奮気味にくし立てる。その様子を見るに、彼女は嬉しい時も悲しい時もきっと騒がしいに違いない。


「――あぁ、か」


 いつの時代にも必ずと言っていいほどある噂話。トイレにいる小さな女の子や『私、きれい?』と訊ねてくる女性の話。謎の秘密結社や埋蔵金などなど。所謂いわゆる、"都市伝説"というやつだ。そして今、琴音たち中高生の間で流行はやっている噂が、"白銀の歌姫"だった。


 不意に聴き慣れない旋律メロディと共に歌声が聞こえてきて、いつの間にか気付けば白いワンピースを着た少女の姿を目にするという。

 大勢の人が目撃したかと思えば、大勢の中の一人だけにしか見えなかったとの話もある。

 自室で、学校や会社で、電車やバス、飛行機、大きなライブ会場、時にはスマホの画面ディスプレイの中で見た、という目撃証言があるその少女は時間も場所も関係なく現れる。

 その歌声は清らかな聖女のようなとか、澄んだ透明感のある声だとか、少しかすれた大人のハスキーボイスだったなどさまざまだ。


 いわく――彼女はあおい瞳をしている。

 曰く――透き通るような白い肌に背中まで流れる白銀の髪だった。

 曰く――髪にはリボン、首元には黒のチョーカーをしている。


 嘘かまことか、大きなバケツプリンが大好き! との噂もあった。


 メル・アイヴィー。それが歌姫かのじょの名前だ。

 いつの頃から、どうやって噂が生まれたのかは誰も知らない。元々、噂というものはそういうものではあるが、一時期、どこかのレコード会社レーベル戦略的宣伝広告プロモーションとして流布るふした、という話がネット上であがった。ただ、今ではその話は情報の渦の中に消えてしまった。その理由の一つとして、メルの名前は琴音たちの両親、あるいは祖父や祖母の時代にも知られていたからだ。


「どこで見たって言ってるの?」

「湾岸線のベイエリアにあるカフェだって。夜の7時前って言ってたかな? なんか海辺の街灯の下に女の人の影がぼーっと立ってたんだって!」

「ぼーっとって……。それって、単に海を見てたとか、誰かと待ち合わせをしてたとかってことじゃないの?」

「そんなことないってば! だってその人、柵の向こう側、海側に立ってたって恵、言ってたもん!」

「それは――変ね。というか、変過ぎる気もするけど……。歌は? 歌は聞こえたって言ってた?」

「へ? あ、そういえば歌のことは言ってなかったなぁ。あと黒髪でワンピースじゃなくて、白い着物みたいなの着てたって言ってたっけ……あれ?」


 自分で話していて、噂の歌姫とは特徴が違うことに気付いた雫は、左手で右肘を支えつつ、右の人差し指で口元を押さえながら首をかしげる仕草をする。


「それって、どう考えてもじゃないの?」

「あぁ! ほ、本当だ! どうしよう、琴音!?」


 急にオロオロしだす雫。


「落ち着きなさい。別にどうもしなくていいわよ。あなたが直接見たわけじゃないんだし」


 苦笑を浮かべて雫をなだめる。それに狼狽ろうばいしている彼女の姿を見てふと、思った。


(――きっと恵も、雫のことをからかったに違いないわ。まったく、困ったものね)


 自分も、しょっちゅう雫をからかっていることは、高い棚の上に置いておく。


「そ、そう? うん。そうだね。琴音が言うなら間違いないよね! よかったぁ!」

「でも、そういうことなら『霊のやつ』であってたんじゃない」

「あっ! 本当だ! 琴音ってば、すごいー! もしかして霊能力者!?」


 琴音は「単なる偶然よ」と軽く流しながら、校門へ向けて歩き出す。


「雫はこれからバイトなの?」

「うん! 欲しいバッグ見つけちゃったから、がんばらないと!――琴音は……病院?」


 雫は少しだけ顔を曇らせると、聞きにくそうにたずねる。


 そんな雫を見て"気にしないで"という意味も込めて優しく笑う琴音。


「うん。今日も会いに行って来る」





 大きな窓からは綺麗な夕日が見え、暖かいオレンジ色の光が注ぎ込み、三階という高さのおかげか心地よい風も入ってくる。ただ、この部屋の主にとっては少々身体にさわるかもしれない――そう思いなおして琴音は静かに窓を閉めた。

 天井も壁も基本は白で整えられた部屋。カーテンは淡い水色、戸棚などはライトブラウン、フローリングも明るい色調のベージュが使われている。

 10畳ほどの部屋にベッドが一つ。シーツと布団は清潔感溢れる純白。そしてベッドの上には少年が眠っていた。

 歳の頃は10代の半ば――中学生、もしくは高校生くらいだろうか。透けるように白い肌は、少年がここにいる歳月が決して短くないことを物語っている。


 窓際に置かれていた椅子をベッドのそばまで持ってくる。先ほどの風が少年の前髪をかすかに乱していた。

 琴音はその乱れた前髪をそっと優しく整えると、いとおしさを込めた指先を少年の頬にわす。

 

 優しく。

 愛おしく。


 この程度では少年は目を覚まさない。名前を呼んでも、強く揺すっても起きることはない。琴音はそれをよく知っている。ずっと前から。


「――あら?」


 すべすべと心地良い肌触りだった頬に、ほんのかすかなざらつきを感じて驚きの声を洩らす。

 成人男性のそれとはくらぶべくもないが、それはおそらくヒゲだと思われた。それが数本、鋭敏な指先でしかわからないほどの申し訳程度な長さで生えていた。

 

「何よ、気付かないうちに男の子しちゃって。生意気な」


 琴音は「こいつめ、えい、えい」と呟きながら頬をつつく。その瞳には大きな喜びとほんの少しのかなしみが入り混じっている。

 少年がちゃんと成長していることへの喜びと、それほどの歳月がたってしまったことへの哀しみ。

 琴音は少年の腕を布団からそっと出すと、その手を両手で包み込む。


「ラーラーラー、ララララー、ララ、ララララー」

 

 少年の顔を見ながら琴音は歌う。

 想いをのせた言の葉は、祈りとなり少年あいてに届く。

 部屋がうたで満ちた時、ベッドを挟んだ向かい側に。


 ふわり、と髪をおどらせて"白銀の歌姫"が舞い降りた。


 琴音は別に驚かない。雫には悪いが、ずっと前から歌姫かのじょのことは知っている。噂話としてではなく現実として。


「こんにちわ、歌姫さんメル。あなたも一緒にうたってくれる?」


 彼女は応えない。ただ韻律こころを合わせて歌うだけ。





 初めてメルが現れたのは三、四年ほど前だっただろうか。

 子供の頃から通っている病院の一室。少年に会いに来るたびに琴音は彼にいろんなことを話した。

 学校での出来事。友だちとの他愛ない会話。見かけた野良猫が近寄ってきて膝の上に乗ったこと。男の子に告白された――なんてことも話した。

 日々移りゆく季節。

 片時もとどまることのない時間。

 この病室だけが世界そとと切り離され、ゆっくりと時間が流れていた。

 せこけた頬。枯れ木のように細い腕。もう長くないと、なんとなく感じていたあの日。

 ふと、ある旋律メロディを口ずさむ。それはずっとずっと子供の頃に、一緒に見たテレビで流れていた曲。どんな歌詞だったか。いや、そもそも歌詞があったかどうかも覚えていなかったが。


「んー、んんー、んー」


 曲調リズムも何もかも、めちゃくちゃだったけれど、なんとなく心のままに口ずさむ。


 一緒にいた頃を思い出して。


 一緒にいたいと想いを募らせて。


 気がつけば、目の前に一人の少女がいた。

 白銀の髪に碧い瞳。自分より少し年上な感じがする大人びたその少女は、何をするでもなく、その澄んだ碧い瞳でじっと見つめてくる。


(――綺麗な人)


 不思議と恐怖は感じない。そこにることを自然と受け入れていた。

 その時はまだ"白銀の歌姫"のこともメル・アイヴィーの名前も知らなくて『誰?』と訊ねてみたが彼女は何も語らず、もくしたまま。


 それから時々彼女を見かけるようになる。

 たまに自分の部屋の時もあったがほとんどが病室で、それもいつもというわけでもない。最初の頃はわからなかったが、彼女が姿を現す時は、鼻唄を歌っているときやスマホで音楽を聴いているときなど"音楽"に触れている時が多いことに気が付いた。それからはベッドで眠る少年と、イヤホンを片方ずつ分け合って音楽を聴くようにした。そうすることで時間を共有出来ると思ったから。

 そして不思議なこときせきが起きる。

 日々のゆっくりとした変化ではあったが、痩せ細っていた身体は徐々に肉付き始め、枯れ木のように乾いた肌は瑞々みずみずしさを取り戻していく。


 音楽療法というものがある。これは音楽の力で怪我や病気を治す――というものではなく、あくまで通常治療を補助するという意味での治療法の一つだが、少年の担当医師は「私見的しけんてきな見解だが」と前置きした上で、音楽を聴かせていたことが効果的だったのではないか――と説明をし、これからも続けていくことを許可してくれた。

 もちろん、医者が言うことなのだがら音楽療法が功を奏した、ということなのだろう。でも、と琴音は思う。誰も目にすることのない銀の髪の少女が現れたからだ、ということが琴美には何故か理解できた。





 あれから数年がたって、琴音と少年は歳を重ねた分だけ大人になった。だけど目の前に静かにたたずむメルは、美しさも含めてあの頃から何も変わらない。当時は随分と大人びた印象を受けたが、今となっては琴音の方が年上に見える。

 ネットなどでメルについて調べてみたことがある。"都市伝説"として広まっているのは日本ばかりではなく、世界の多くの国々で"メル・アイヴィー"の名前は広まっていて"銀の女神ディーヴァ"や"碧眼の詩神ミューズと呼ばれていることも知った。そして、やはりうた――というより詩も含めた音楽に関連して彼女の目撃情報は集約される。ただ、その条件ははっきりとしない。


 音楽に触れている人、誰もがメルのことを見えているわけではないらしい。実際、琴音自身もいつも見えているわけではなく、むしろ見えていない時の方が多いくらいだ。心当たりがあるとすれば、その時の"心理状態"が関係していると思う。

 例えば、どういう気持ちで音楽を聴き、どういう想いでうたを歌っているのか。琴音の経験そくからすると"何かを"もしくは"誰かを"想っているときではないか――という気がしている。

 ただ単に音楽を聴いているときではなく、少年を想っているときにメルは現れているように思えるのだ。


 誰かが言った。音楽うたは"祈りだ"と。

 だから歌う。

 銀の女神ディーヴァと共に。


 誰かが言った。音楽うたには世界を救う"力がある"と。

 だから歌う。

 碧眼の詩神ミューズと共に。


 今は春。

 すべての新しい命が芽吹く季節とき


 今日は生誕の日。

 世界が少年を迎え入れた日。


 だから琴音は歌う。

 白銀の歌姫メル・アイヴィーと共に。 


「一緒にうたってくれる?」


 彼女は応える。韻律こころを合わせて歌ってくれる。



『――私は貴方あなた。貴方は私』



 噂どおりの、否。それ以上の美しいこえが辺りを包み込む。

 言の葉には力が宿り、韻律こころともなって"祈り音うた"となる。

 メル・アイヴィーの奏でる詩聲うたごえは、人の願いを内包して世界に浸透する。

 碧い瞳は閉じたままかすかに上向き、胸の前でを組む姿は、まるで救世くぜの存在にう祈り子のよう。

 琴音もまた、少年の手を握り締めたまま、祈るように目を閉じて、微かにあご先を上に向ける。


 メル・アイヴィーと琴音の詩聲うたごえが重なり一つになる。

 二人で一人。

 想いを届けたいという、うたい手たる者の願いのかたちが、メル・アイヴィーという名の少女。


 一瞬と永遠の狭間はざま揺蕩たゆたう時間が過ぎた後、少女の姿は消えていた。

 気付けばトツトツと窓を叩く音が聞こえる。


「――雨、降ってたんだ」


 少年の手を握ったまま、振り返るように視線だけを窓の外に向ける。

 ポツポツと雨は降っているようだが、雲はほとんどなく空は茜色あかねいろに染まっている。


「――天気雨」


 ぽつり、と呟いた時、少年の指がほんのわずかだが動いたことを、握った手のひらが伝えてくる。

 琴音は、ハッとして少年の顔を見つめた。心なしか頬に赤みが差しているようにも見える。


「もう……いい加減、そろそろ起きないと――ね?」


 頬を伝う涙が、夕暮れの光をキラリと弾く。

 そう遠くない未来、きっと少年は目を覚ますだろう。その予感が琴音の胸を熱くする。



『その時にまた、貴方わたしに会いに来るわ』



 ふと、そんな余韻こえが聴こえた気がした。


 いつの間にか天気雨あめは上がり、窓いっぱいにあかねの空が広がっている――

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る