第60話 いいわけ
『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』
あの時、真希さんはいつかこのような日が来ることを予測して、その時に堂嶋さんの支えになってほしいということを言っていたのだろうか。
あるいはもっと、あたしの根の部分を、あの時彼女はすべて見抜いていたのかもしれない。
「奥さんは、あたしにすべてを託してくれました。だからあたしは、何としてでも堂嶋さんを生かさなくちゃいけないんです。真希さんは、堂嶋さんがこれから先も、ずっと強く生き抜くことを期待して、いや、信じていたはずです。
だから……さあ……」
あたしから差し出された肉を、堂嶋さんはそっと両手でやさしくつつみこむように受け取る。その目には、うっすらと涙が滲んでいる。
堂嶋さんは、そのまま両手で肉を口へと運ぶ。
黙ったまま、堂嶋さんは何度も何度も肉をかみしめ、そして飲みこんだ。
しばらくの沈黙の後、堂嶋さんは少しだけ落ち着きを取り戻した。そして、肉の残り全てを平らげる。骨をしゃぶり、肉の一辺も残さないようにきれいに食べつくした。
「堂嶋さん。ひとつうかがってもいいですか?」
「なんだ?」
「味、おいしかったですか?」
「……………」
「あたしの作った料理、美味しかったですか?」
「おいしいわけがない」
「落第……ですね」
「あたりまえだ。大体なんだこの焼き加減は、片面に熱が入りすぎて肉がパサついている。胡椒を先にふってあったにもかかわらず、こんなに強く焼いてしまったんじゃあせっかくの胡椒の風味が飛んでしまっている。今まで何を勉強してきたというんだ。
いいか、肉の調理はたった一回、食べる側も、食べられる側もたった一回しかチャンスがないというのに、その大切な一回をこんないい加減な料理を作るようでは人肉調理師としてやっていけるわけがない」
「……そうですか……それは……よかった……です……」
「よかった?」
「いつも通りの堂嶋さんのダメ出しが聞けて良かったです。それに、落第したから、あたし、まだしばらくは独立して仕事を受けるわけにはいかないみたいです……
たった一回の料理を台無しにしてしまったあたしは、これから一生かけて梨花ちゃんと堂嶋さんに償いをしなければいけないし、明日からも堂嶋さんにしっかり指導してもらうことになりそうです……」
「指導? 残念だけど、僕にはその資格はもうないよ……」
「そ、そんなことないです。堂嶋さんは、あすからまた、現場に復帰することになります。まだ、報告聞いてませんか?」
「報告?」
「堂嶋さん、不起訴になったみたいです」
「不起訴? な、なぜ?」
「そ、それは……」
それは、あたしからの口添えがあったということがひとつある。あの日、刑事に堂嶋さんの行方について聞かれた時、ついうっかりあたしは本当のことを言ってしまった。もしかすると、山に登ったのかもしれないと。言ったあたしはすぐにしまったと思った。堂嶋さんが梨花ちゃんの遺体を持ち出したというのならば、あたしはそれを手助けするべきではなかっただろうかと。
苦し紛れにあたしはすぐに言葉をつづけた。
『人肉を最もおいしく下処理するためには高原に咲くハーブに漬け込むのが最良だと言っていました。それをとりにいたのではないでしょうか』
もちろん、そんなことは全部嘘っぱちだ。しかし、料理知識のない刑事がその話を鵜呑みにしたとしておかしくはないだろう。ただでさえ一人娘が死んだのだ。料理人として、その娘を最も最高の形で食べたいと思うのは当然のことだろう。
奇しくも堂嶋さんはあたしの言った通り、梨花ちゃんを担いで山に登っていたのだが、その時に腐敗防止のためにドライアイスを一緒に持って登ったということが功をなした。
検事は、堂嶋哲郎は堂嶋梨花の遺体を持ち逃げしようとしたわけではないという判断を下した。
あるいは、検事はすべてお見通しだったかもしれない。その検事は、二か月後に息子が十歳の誕生日を迎え、自らが献体となることが決まっていると話していた。たった一度の自分の体を使った料理を家族にふるまうチャンスに、最高の料理人がいないなんてことを避けたかっただけなのかもしれない。今回の件で借りのできた堂嶋さんが、彼の調理を断るなんてできるわけがないだろう。
もちろんあたしは、そんな事実をいちいち堂嶋さんに説明したりなんかはしない。
ただ一言。
「堂嶋さんを、必要としている人がたくさんいるっていうことです」 と、説明しておいた。
「もちろん。あたしもその一人です」と補足をしておく。
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