第59話 あの人のこと、よろしくね
あたしは、キッチンのストーブに火を入れる。フライパンはアトリエから一枚、持参してきてよかったと思う。堂嶋さんが永年使い続けた鉄のフライパンだ。鉄板の芯まで熱の通ったそのフライパンは、すでに油がなじんでいて、ほんのわずかな油脂を入れて加熱するだけで焦げ付くことはない。
小さな発泡スチロールの蓋を開き、中から緩衝剤にくるまれている肉の塊を取り出す。
小さな、きれいな円柱型の肉の塊は、ほんのりと薄ピンク色に染まり、その中央には、真っ白で無垢な骨の断面が見える。
あたしが遺体管理局に申請したのは、梨花ちゃんの上腕部の輪切りだ。初めて出会った時、その白くて柔らかい、女性らしさの際立つ上腕筋に噛みつきたいと言う衝動があった。それを実現するためのエゴと言うわけではないが、その断面を実際に見るとどうなっているかと言うことには興味があったことは否めない。
こうして断面で見ると、人間の皮膚の皮と言うものは意外と分厚い。たぶん文明的な人間が、野生動物のように外から噛みつき、この皮膚を食いちぎって中の肉を食べるのは無理なのではないかと思う。皮膚と肉との間にペティナイフを先端から差し込み、向こうまで貫通させると、そのナイフを下にして、まな板とナイフで皮膚を挟み込むようにして上から圧を掛ける。ゆっくりとナイフを手前に引きながら、円柱型の肉がタイヤを転がすように動かす。くるりと一周したところで肉と、輪っか状に切り取られた皮膚とに分かれる。
皮膚の取り除かれた上腕部に塩胡椒をしっかりとふり、熱したフライパンに乗せる。底が焦げ付かないように初めは少し油脂を馴染ませるようにフライパンをゆするが、その後はなる別一点から移動させないようにする。片面を七割焼いて裏返し、反対を二割焼く、余熱でちょうど芯まで加熱するように心掛ける。中央の骨の髄液が沸騰して、真っ白だった骨をピンク色に染める。焼きあがった肉は、白いお皿の中央に置き、それで完成。
今日は、ソースも付け合せもなければパンもスープもない。ただ、炎で焼かれた娘の腕があるだけだ。堂嶋さんは、この食事を味わおうなんてまるで思ってなどいない。堂嶋さんが必要なのは……
食事の場所は、無機質で何もない四角い部屋が用意された。そこには小さなテーブルと椅子が二つあるだけで、あとのほかには何もない。テーブルの真ん中に立った一枚の皿が置かれ、一方の椅子にドレス姿に着替えたあたしが座る。以前に堂嶋さんと人肉料理店に行くために新調された、背中の大きく開いた青いドレスだ。あれ以来、一度も袖を通す機会がなかった。
やがて、堂嶋さんがその部屋に訪れた。昨日より一日の時間を過ぎたが、その姿は十年ほど憔悴したように見える。
向かいの椅子に座り、看守が部屋を離れ、二人きりになる。堂嶋さんは、テーブルの上に置かれたみすぼらしい料理を見つめる。何も言わない。
「さあ堂嶋さん。召し上がってください。――冷めないうちに……」
「……」
「食べないんですか?」
「これは……」
「いいですか、耳をふさがないでちゃんと聞いてくださいね。これは、梨花ちゃんの腕の肉です。シンプルに、塩胡椒で焼いただけのものです」
――シンプル。その言葉で形容するにはいささかみすぼらしすぎる料理だ。今の堂嶋さんに必要なのは、美味しい料理ではない。すでに娘は死んでしまって、これっぽっちの肉の塊になってしまったのだと認識することだ。
梨花ちゃんの死を受け入れること、それが堂嶋さんにとって必要なことだ。
「さあ、堂嶋さん。召し上がってください……」
「……僕が、娘の肉を本当に食べたいなんて思ってるわけじゃないだろ……」
「ええ、わかっています。でも、食べなきゃいけないんです……
梨花ちゃんの死を受け入れるためにも……
梨花ちゃんも、今の堂嶋さんと同じことを考えていたんですよ、きっと……
だから、おかあさんの肉をどうしても食べられなかった。
お母さんの死をどうしても受け入れることが出来ずに、その事実自体か逃げ出してしまった。
その結果……梨花ちゃんはどうなりました?
家族の死を受け入れるのはきっととてもつらいことなのでしょう。でも、それを受け入れないと、今度は堂嶋さんが死んでしまうことになるうです」
「……構わないさ。僕には……もう、生きる理由なんて残されていない。妻を失い、子を失い、僕はこれから生きていくことに何の意味もなくなってしまったよ。
時々思うんだ。もしあの時、献体になったのが妻ではなくて僕の方であったのならば、梨花は僕の肉を食べ、今もなお生き続けていたんじゃないかって……
――次の世代に命をつなぐ。それこそが人間が生きることの意味だと僕は思っている。自分と言う存在が、今ここにあったということを証明するために、その遺伝子をつないでいくことこそが生物の生きる意味であり、その意味を失ってしまった以上、僕に生きる意味なんてないんだよ。いっそのこと自分の体を献体にでも差し出した方がいい。こんな僕でも、誰かの食べ物になることでぐらいならその存在価値もあるだろう」
「なにを……言っているんですか……」
あたしは少しだけ、憎しみのこもった口調で答えた。
「堂嶋さんに生きる価値がないなんて、勝手に決めないでください。堂嶋さんの、今までしてきた仕事で、言ったどれだけの人が幸せになれたと思っているんですか? これから先、どれだけの人を幸せにできると思っているんですか?
自分に生きる意味がないなんて、勝手なこと言わないでください。生きる意味がないなんて思うのなら、それを捜すために生きるでもいいじゃないですか。そんなこと自分で勝手に決めないでください!」
「で、でも、僕は……」
「生きて! ください……」
あたしは思わずその場で立ち上がった。次の瞬間、テーブルの上に置かれた皿の上にある、梨花ちゃんの腕の肉を手でわしづかみにして、それを自分の口元に運ぶ。
弾力のあるその肉にしっかり歯を立てて固定し、手で引きちぎるようにしてむさぼった。
口の中で、堅くてい生臭い味が全体に広がっていく。それでも、まだ幼い彼女の肉は成人の筋肉に比べればまだまだやわらかい方だ。飲みこむためには何度も何度も咀嚼しなくてはならない。
はっきり言って、美味しい肉だとは言えない。高いお金を払ってまで食べるような料理なんかでは絶対にない。それでも、ひとがその肉を食らうのには理由がある。肉を食べるという行為は、その生き物の死を乗り越えて生きて行かなくてはならない使命が存在する。肉を食べたぶん、その肉に対して、その生物の命を預かり、これから先まだまだ生き続けることを誓うという儀式なのだ。
命を食べないという理由で、ベジタリアンと言う考え方もあるが、それはひとつの意味では生きることに責任を取らないという意味でもある。すべての生き物が生きるためには必ずほかの生き物を犠牲にする必要があり、その覚悟を決めるために人は肉を食べるのだ。
何度も何度も咀嚼をし、ようやく口の中でやわらかくなりはじめた梨花ちゃんの肉を、あたしそのまま飲みこんだ。肉が食道を通り、胃の中へと落ちていく。梨花ちゃんの体の一部が自分の体の一部となり、彼女の死を乗り越えて自分が生きていくことを誓う。
「次は、堂嶋さんの番です!」
あたしは手に握った梨花ちゃんの肉を堂嶋さんへと差し出す。
「食べてください! 食べるということは、生きるということです!」
うつむいたままの堂嶋さんはそれを受け取ろうとはしない。
ここまで来てもやはり覚悟が決められず、うじうじとしている。
「さあ」
肉をわしづかみにした自分の手をさらにもう一歩、押し付けるように差し出す。
気迫に押された堂嶋さんが、いよいよその手に握られた肉を凝視する。いや、正確にはその肉を掴んでいるあたしの手。あたしの指にはめられた指輪を見ている。
「すっかり、無くしたものだとばかり思っていた…… どうして香里奈君がこれを……」
「奥さんから、いただきました……。形見として」
堂嶋さんの奥さん、真希さんが献体となる直前、あたしに形見として託したその小さな袋の中には、一本の指輪が入っていた。シンプルなデザインのその指輪が、堂嶋夫妻の結婚指輪だということぐらいは考えなくたってわかる。彼女がどういう気持ちで、この指輪をあたしに託したのか。
『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』
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