第49話 わが子を食らうサトゥルヌス
2枚並べられた同じ構図の女性の絵はとても有名だから知っている。(着衣のマハと、裸のマハだ)しかし、なぜ、こんな2枚を仕上げたのかはわからない。まず、着衣のマハを先に描いて、そこから彼女の裸を念写するように書いたのか、まさか大それた間違い探しの絵を描いたわけではないだろう。
しばらく並べられた絵を見てはいるが、何をどう感じればいいのかはやっぱりよくわからない。贋作とは言われても、こんなところに展示されるほどの贋作はやはり素晴らしい出来で、本物の価値と何がどう違うのか、あたしにはよくわからない。それは単にコレクターたちの金銭的価値の違いなのか、あるいはあたしにはまだ理解の及ばない違いが存在しているのかわからない。しかし、そんあたしでも、どの絵が好きか、その絵に対して自分がどう思うのかくらいならそれなりに意見はある。その点においても、やっぱり芸術と料理とは似ているのかもしれない。
そんななか、一枚の絵があたしの足を思わず止めた。それはあまりにも恐ろしい、狂気じみた絵だった。
「我が子を食らうサトゥルヌス」
堂嶋さんが、説明するかのようにその絵のタイトルを教えてくれた。髪を振り乱した男が人間を頭からくらいつている。その両目は眼球をむき出して、猟奇じみた表情をしている。『我が子を……』と堂嶋さんが言ったが、なぜ、この男は我が子を食べようとしているというのだろうか。
「サトゥルヌスは――」と、堂嶋さんが説明をしてくれる。「――はギリシャ神話で言うところのクロノスで、いずれ我が子が自分を滅ぼすという預言を恐れ、その恐怖のあまり猟奇化して自分の子供たちを食べていくというエピソードがある。これと同じ構図の絵をルーベンスも描いている。食人習慣のなかった当時としてはかなり衝撃的な絵だったんじゃないかな」
「食人習慣のある現代でも、十分衝撃的ですよ。この絵は。せめて、せめてちゃんと料理して食べてあげるべきです。こんな、こんな頭から丸かじりするなんて……」
「そうだな。猟奇じみてでもなければこんなことはできないさ。自分の子供くらうなんてな……」
その絵の衝撃さゆえか、すっかり意気消沈してしまったあたしは言葉少なに美術館を出る。ポケットから携帯電話を確認した堂嶋さんは、美術館で電源を切っているあいだに連絡が入っていたらしく、留守番電話に録音されたその内容を少し離れた場所で聞いていた。その表情が、みるみるうちに青ざめていくのがわかる。通話が終わり、携帯電話をポケットにしまった堂嶋さんがこちらへやってきて、「すまないが、ちょっと急用ができた」と言った。その表情は、〝急用〟で済ませるような物事ではないということぐらいはすぐにわかる。
「あの……どうしたんですか」
「ま、真希……妻が、倒れて救急車で運ばれたらしい。い、今から病院に……」
「あ、あたしもいきます!」
あたしがついていったところで、一体なんになるというのだろうか。しかし、突然のことにどう対応していいのかわからず、あたしはそう言った。目の前で動転している堂嶋さんをほおっては置けないと思ったのかもしれない。病院の集中治療室の前で堂嶋さんは医師からの説明を受けていた。部外者であるあたしはあまり立ち入ったことを聞いてはいけないと少し離れた場所から見ていたが、堂嶋さんと医師とは互いに見知った間柄のようだった。こういったこともどうやら珍しいことではないように思えた。
ひととおりの説明を受けた堂嶋さんは、少しだけ表情を穏やかにして、(あるいは無理にそうしているのかもしれない)あたしに言った。
「特に大した問題ではないよ。ちょっと体調を崩しただけみたいだ。妻は、以前からあまり体が丈夫ではないんだ。こういうことも初めてではない。命に別状もなく、しばらくすれば目を覚ますようだから、香里奈君は今日のところは帰ってくれてだいじょうぶだよ。明日は、予定通りに出勤するから」
そう言われたのでは、あたしにできることはもうない。その日は家に帰り、翌日、いつもよりも少しだけ早くに出勤した。
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