第50話 いい知らせだよ


 堂嶋さんは、いつもとほぼ同じ時間に出勤してきた。

「昨日はごめん。心配を掛けたね。あの後妻も意識を取り戻し、今日の朝にはもう家に帰ってきたよ。さあ、そんなわけで今日もしっかり仕事を開始しようかあ」

 無理に明るく振るまおうとしているのがわかる。病気もそんなに心配する必要もなく、退院したということも嘘ではなさそうだが、明らかに昨日までの堂嶋さんとは違う、今にも壊れてしまいそうな影がある。何事もなく、コックコートに着替える後姿がかえって痛々しい。

「なにが……あったんですか……。なにもなかったなんてことは、ないんでしょう? あたしにだってそれくらいはわかります」

 余計なことを聞いてしまった。堂嶋さんは、片方だけ袖を通したコックコートをそのままに動きを止めた。

「……いい、知らせだよ」

 背中を向けたまま、静かに言う。

「……どうやら僕は……死ななくてもいいらしい……。僕は、献体にはならない……」

「それってつまり……」

 堂嶋さんは再び動きを再開して、宙ぶらりんになったもう片側のコックコートを持ち上げ、両手の袖を通し終え、静かにうつむいたまま前のボタンをとめはじめる。

「昨日、妻と話し合った。来月、娘が十歳の誕生日を迎えた時に献体になるのは、妻ということになった……」

 堂嶋さんの足元、コンクリート打ちっぱなしの床に水滴の粒が落ち、ゆっくりと地面に涙の染みが広がっていく。


『あのひとのこと……よろしくね、香里奈さん』


 奥さんの言っていた言葉が頭の中で繰り返される。あの時、奥さんは既にそうすることを決めていたに違いない。

 堂嶋さんの奥さん、堂嶋真希は、生まれつき心臓に病巣を抱えていた。しかし、発達する医療にも限界と言うものがあり、彼女の体はすでに限界に近いということだった。 

 もうどの道ながくは生きられない。だから献体となるのは自分の方だと主張した。

「それでも初めから自分が献体となる約束だった」と、堂嶋さんは言ったのかもしれない。しかし、そんなことをすればいずれ両親をともに失い、娘は孤児になってしまうと言われれば、それ以上の反論はできなかっただろう。

「僕はね……正直に言うと、その時にほっとしてしまったんだよ……」

 贖罪の念を、絞り出すように彼は言った。

「彼女に死んでほしいなんてこれっぽっちだって思っていない。僕の身代わりに彼女が献体になることを僕は望んでいない。たとえ一日でも長く、僕より生きていてほしい。これは僕のエゴかもしれないが、僕は彼女のいない人生なんて、一日だって生きていたいとは思わない……

 それなのに、彼女が献体になると言い出した時、僕はホッとしてしまったんだ。

 僕は……死にたくはない……

 たとえ一日だって長く生きていたいんだ。

 少しでも長くこの世界と関わっていたいし、僕がいなくなった後の世界がどうなっていくのかが見ていたいと思っている……

 この世界から僕がいなくなって、いつか誰も僕のことを覚えていなくなる日が来ることがことが怖いし、僕が死ぬことで妻のことを思いだせなくなってしまうこともいやなんだ。

 僕は死にたくなんかないし、 

 妻にだって死んでほしくなんかない……

 この世界には、救いの道なんてどこにもないんだ……」

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