第35話 帰郷

 橘の里親、通称ママは本名を『橘 柚子』。30歳で結婚をして、娘が一人いた。早くに旦那さんを病気で亡くしてしまうが、当時はまだ食人法もなく、娘の清美さんはすくすくと育っていった。清美さんは27歳で結婚した。奇しくもその年は政府が食人法を制定した年だ。しかし、母の愛を一身に受けて育った清美さんはやはり自分もまた子を産み育てることに迷いはなかったという。いずれは自分が献体になることも覚悟でこの世に我が子を産み落とした。

 その子が2歳の時、父親の運転する自動車の事故で父子は共にこの世を去った。

 夫と子とを同時に失った清美さんと、孫を失った柚子さんは深く悲しみに沈んだが、やがて活力を取り戻し、食人法の制定により、出生率が劇的に下がったために廃園となった保育園を買い取り、家族庭園、橘を開園した。脱献孤児のあたしがその園に引き取られたのは物心がついて間もなくのことで、橘で最初の子供だった。あたしは柚子さんをママ、清美さんをちいママと呼んだ。園児は次々に増えていき、あたしの知る限り、多い時で20人くらいはいたと思う。ママとちいママはあたし達を分け隔てなくどの子も皆、我が子のようにかわいがってくれたが、おそらくあたしのことは、きっとほかの子よりもより深くかわいがってくれていたと思う。たぶんあたしが、事故でなくなったちいママの本当の娘、せとかちゃんと同い年だったからだろう。あたしのことを自分の娘の身代わり、いや、自分の本当の娘だと信じて育ててくれていたような気がする。そしてあたしが十歳になった時、ちいママは献体としてこの世を去った。当然、血の繋がっていないあたしはちいママを食べる権利を持ってはいない。そして多分ママも、ちいママを食べてはいないと思う。それらしい光景を見たこともなければ、そんな話すら聞いてもいない。

 

 家族庭園、橘の立派な表札がかかった門の前にあたしは立ち、フェンスの向こうで遊ぶ子供たちを眺めながら、インターフォンを押すべきかどうかを悩んでいた。今更どんな顔をして合えばいいのかがわからなかった。

「あの……わたくし、牧瀬香里奈と申します。以前こちらの施設でお世話になったことがあり……」

 小さな声で呟きながら、今からはなすべき言葉を考えながら練習をしてみる。やっぱり少し堅苦しいだろうか…… まずは過去のことを謝る所から始めるべきか…… 迷うながらもインターフォンの呼び出しボタンの前で人差し指を出したままで考え込んでいた。園庭の子供たちがはしゃぐ声が静かな街並みに響く。子供の何人かがあたしの方に振り向いたように感じた。

「あー、ママだー」

 と、誰かが叫ぶ声が届くと同時にすぐ真後ろから声をかけられた。

「香里奈ちゃん、そんなところに突っ立って何してるの? 早くお入りなさい」

 慌てて振り返るあたしの真後ろにママ、橘柚子が立っていた。もう80近い年齢のはずだが、まだ背筋はまっすぐにのび、陽射帽を目深にかぶり、もんぺ姿の作業着で立っていた。手に持った網かごには大量の野菜が詰められている。おそらく園の裏手にある自家農園で栽培された野菜だろう。泥だらけの顔は真っ黒に日焼けしており、深いしわが幾重にも走るその姿は記憶の中のままとまるで変っていない。思わず「お元気そうで」とつぶやく。

「あたりまえじゃないの」と言って、「さ、早く」と入口を指差す。

 あたしはフェンス脇の格子の隙間に手を突っ込み、半回転ひねって見えないところにある格子のストッパーを器用に回す。日中にこの園の入り口の格子に鍵がかけられていることはまずない。ストッパーは手を伸ばせば簡単に外せる。外側からはそのストッパーがどこにあるのかは見えないので部外者がストッパーを外すのは容易ではないだろうが、この園に長いこと住んでいる者なら誰だって簡単に外すことができる。

 結局あたしは堅苦しいあいさつも、謝罪の言葉もないままに園内に入っていくことになった。入口のすぐわきにある水道ですぐさまに収穫したばかりの野菜を洗い、簡単に皮をむいたりの処理をする。何も言わずにそれを手伝うのは昔と一緒だが、気付いてくれているだろうか。今のあたしはプロになっていて、あのころに比べて格段に手際が良くなっていることを。作業はあっという間に終了して、調理場へと運びこんでから、その隣のママの部屋へと移動する。『園長室』という表札はそこがかつて保育園だったころからずっと貼られたままの表札で、今ではすっかり黄ばんでぼろくなっている。主に事務仕事をするためのママの部屋を園長室と呼ぶ人は誰もいなかった。あくまでもそこは『ママの部屋』でしかなかった。

「香里奈、ちょっとお茶入れてよ」

 とママは何事もなかったように、まるで昨日も当たり前のようにあたしをそうやって使ってきたように指示を出す。かつてのあたしもそれを当たり前のようにこなしてきたから、やり方はわかる。すっかり古くなったコーヒーメーカーで、メモリよりも少し薄めに落とす、ママのコーヒーの好みも覚えている。まるでこの場所はずっと時間が進まない場所のようにすべての物の配置もあの頃のまま何も変わらない。

「すっかり見違えたわ。立派になったのね」

「ママは全然変わっていない」

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