第9話 ポトフとは

 芹沢家に到着したのは午前七時を過ぎた頃。にもかかわらずミッシェルさんと奥さんの菫さんはすでに畑に出ていた。

 農家の朝は早い。夜が明ける前に起きて仕事の準備をする。植物は夜の間にその身に栄養をしっかりと蓄え、日が昇るとともにその栄養を使って一気に成長を開始する。したがって、一般的には夜が明けて成長を開始する直前に収穫するのが最も望ましいとされている。

 北陸地方の四月、午前七時ともなればその日の収穫はほぼ終わっており、市場への出荷の準備を始めている時間だ。

 ミッシェルさんは到着したあたし達とあいさつを交わし、収穫の終った野菜から、昨日のうちにお願いしておいた分を引き渡してくれた。そうして再び元の仕事に戻る。喪中とはいえ、仕事を空けるわけにはいかない。野菜は人間と同じ生き物で日々成長をしている。たとえその日がどんな日であろうと必ず一日分成長し、その日に収穫しなければもっとも最適な時期を一日ずらす。一日多く成長した野菜は当然その分食べごろを過ぎており、またその野菜が一日分長く成長したせいで他の野菜は予定量の栄養分が摂取できなくなってしまい、やはりその分理想的な作物に育たなくなってしまう。野菜は成長の過程で刈り取られなければならない時に刈り取られる必要がある。それが仲間の成長の糧となっているのだ。


 まず、庭先に出た堂嶋さんは昨日買ったばかりの七輪に炭を起す。初めのうちにしっかりと燃やし、火力が落ち着いて炭がくすぶり始めてからが使い時だ。炭が理想的な状態になるまでの間に堂嶋さんはホテルの厨房からもらってきた大きな横長の段ボールを取り出した。キャベツをモチーフにしたイラストと生産地が書かれている。八百屋がホテルに野菜を納品した際に置いて行った段ボールだ。縦四〇センチ、横六〇センチ、高さ三〇センチといったところか、その段ボールの横側面を切り抜き、抜いた面を地面にして立てておく。段ボールの蓋となるフラップ部分がちょうど観音開きの扉のようになる。これを七輪にかぶせて薫製室をつくるのだ。

 上部の両側面を貫通するように穴をあけ、そこになるべくまっすぐで長い木の枝を通す。これにS字フックを引っかければ簡単な燻煙室が出来上がる。五本のS字フックには先程塩漬けにされたばかりの指がぶら下げられる。ぶら下げられた指の根元に少しだけ飛び出ている骨の周りにしっかりとサラダオイルをしみ込ませる。次に七輪の隅の中にたっぷりの桜のチップを放りこむと香ばしい匂いとともに白い煙がもうもうと立ち上がる。段ボールで囲われた七輪はあっと言う間に白い煙に包まれる。ダンボールの内側につるされた五本の指が白い煙に包まれる。けむりを閉じ込めるように観音開きになったダンボールの蓋を閉じる。このまましばらく置いておくだけで燻製が出来上がることだろう。

 あたし達は再び家の中にキッチンに戻り、今度はその間に野菜の下ごしらえを始める。

 人参、蕪、牛蒡、じゃがいも、セロリ、縮緬キャベツ、エシャロット。どれも収穫したばかりの新鮮な食材だ。朝摘みの野菜は夜露をしっかりと内に含んでいてみずみずしい。

 牛蒡は表面をたわしでこすり、5センチくらいの長さに切って水につけ灰汁をとる、じゃがいもも皮をむいて少し大きめの乱切り、人参をシャトー(ラグビーボール型)に剥いて、蕪は面取り、セロリ、エシャロットもおおきめの乱切りにするだけだ。作業はあっという間に終わる。あたしだって料理学校を首席で卒業した身だ。これだけ準備すれば堂嶋さんがどんな料理をつくろうとしているのかは大体想像がつく。

「ポトフ……ですか?」

「……の、ようなものだな」

「あの指の燻製はソーセージですか?」

「見た目ではソーセージみたいになるだろうね。でも、腸に包んでいるわけでもなければ中身を練り合わせているわけでもない。だから骨付きベーコンといったところだな。本当は、はじめソーセージをつくりたかったんだよ。だから網脂(内臓の周りについている脂肪質。網状の脂肪と薄い膜でできており、食材を包んで焼くことによって中の肉汁やうまみが外のこぼれないようにする効果がある。これを使ってソーセージ《サルシッチャ》をつくったりもする)も欲しいって言ったんだが、管理局は申請できる食材は一部分だけだと言って出してもらえなかった。まったく。網脂くらい少し分けてくれてもいいだろうとは思うけどね。お役所仕事と言うのはなかなか融通が利かなくて困る。まあ、僕も今は公務員になるんだけどね。

 まあ、そんなわけでソーセージはあきらめたんだよ。市販の豚の網脂も考えたんだけど、やはりそれはアベルさんに対して不誠実な気がしてね。だから今回はベーコンにすることにした。タバコが好きで手放せなかったという話も聞いたからね。もう、死んだんだからいまさら健康もないだろ? だからしっかりと煙であぶってやるのもいいかななんてそんなことを想ったわけだよ」

 あたしは、そうやって説明してくれる堂嶋さんをずっと見つめていた。この人は……

「ああ、そういえば」と、堂嶋さんは続けた。「さっき香里奈君は〝ポトフ〟と言ったけれど、それは本当は間違いだ」

「そう言えば……、さっき、――のようなものって言ってましたよね」

「ああ、ポトフと言うのはフランス料理で牛肉と根菜とをブイヨンで煮込み、粒マスタードを添えて食べる料理のことを言う。これに似た料理で〝ポテ〟と言うフランス料理がある。これはポトフと違って豚肉、つまりベーコンやソーセージを使って作る料理で、一緒に煮込む野菜がポトフと違い、キャベツが加わるということが特徴だ。つまり、日本で一般的に言っているポトフと言うのは本来フランス料理で言うところの〝ポテ〟であり、ポトフとは別の料理だ。まあどちらもその名の由来は〝鍋〟をいみするPotからきているわけだが、日本では一般的にこの事実は認識されていないようなので今回の料理を〝ポトフ〟と呼ぶことに異を唱えるつもりはない。むしろポトフと呼んだ方がイメージがわきやすいため、あえてそう呼ぶべきなんだろうけれど、君も料理人のはしくれとして、そういった事実だけは認識しておいた方がいい。知っていてあえて使うことと知らずに使うことでは意味が少し違うからね」

 と、淡々と説明してくれる堂嶋さんをあたしはずっと黙ったまま見つめていた。その視線に違和感を憶えたのか、

「香里奈君、僕の顔になにかついてる?」と聞いてきた。

「いえ、そういうわけではないんですけど…… なんていうか……堂嶋さんって、料理の話になると急に饒舌になるんですね。す、少し、意外でした……」

「な、なにを言っているんだ。ぼ、僕は……」

 そう言ったきりそっぽを向いてしまった。顔を少し赤らめ、再び朴訥ないつもの堂嶋さんに戻る。なんだかすこしだけかわいい。

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