第8話 右手の下ごしらえ


 翌朝、ベッドで目を覚ましたのは午前四時だ。少しばかり早いが、今日が仕事の本番。少しばかり準備が必要なので早くに出発する必要がある。

 ホテルのロビーでフロントの受付の男性が、「遺体管理所より、堂嶋様宛の荷物が届いています。ホテル調理場にて保管しておりますので、ご出発前にお寄りください」と説明してくれた。

 一度ホテルのロビーから出たあたし達は裏手にまわり、レストランの厨房へと入った。まだ朝の早い時間だが、すでに何人ものコックが作業を開始していた。もし、あたしが首席で卒業できなければ人肉調理師見習いになどならず、こうして朝早くから夜遅くまでと言うコックならではの生活をしていたのだろう。それを考えるとなんてゆるい仕事をさせていただいているのだろうと自らを咎める。

「荷物を受け取りに来た」

 と告げると、それぞれに作業しているコックたちは一瞬凍りつき、一同にこちらに注視していることがわかった。昨日の料理長が仰々しく四〇センチ四方くらいの発泡スチロールを抱えてやってきた。その手は緊張のせいか少し震えている。

 堂嶋さんはその発泡スチロールを受け取り、お礼を述べた。

「あ、あの……」と、料理長。「差し出がましいようですが、もしよろしければその、下処理の作業を拝見させていただいてもかまいませんか?」

「ええ、特に問題はないと思います」

 そう言って堂嶋さんは箱を作業台の淵に置いた。厨房の遠くの方にいた他のコックたちも興味津々と集まってきた。

 堂嶋さんが発泡スチロールの蓋を開けると、中から白い煙が上がる。中には厳重にいくつもの保冷剤が入れられており、その真ん中に新聞紙にくるまれた塊がある。それを両手で大事そうに持ち上げ、新聞紙を包装をはがす。

 中から出てきたのは老齢でしわの寄った、大きな右手だ。血の気を失い青白く半開きの状態で硬直しているが、それは言うまでもなく手首のところからすっぱりと切り落とされた完全な右手だ。あたしはそれを食材として認識することはできなかった。それはまぎれもなく人間の体の一部で、背の高い堂嶋さんの手よりもさらに一回り大きい手、それはその手の持ち主の大きさを物語るに十分な大きさだ。

 皆、その手を見るなり「おお」だとか、「ああ」だとか感嘆の声を挙げたり、あるいは「ううぅ」と呻きに近い声を出すものなどさまざまだった。

「たしかに受け取りました。ありがとうございます」

 淡々と無表情でお礼を述べた堂嶋さんはそれを元の通り新聞紙にくるみ、厨房の隅へと移動する。そこでそのアベルさんの手を下ごしらえする必要がある。その作業自体、芹沢家に持ち込んでからおこなってもよいのだが、まだ、遺族の体の一部である感の強いその食材を芹沢家で切り刻んでいる姿を遺族が見た時に思うことだってあるかもしれない。その事を懸念して最低限の処理をその場でさせていたたくことにしたのだ。


 大きめのまな板の上にその右手を置いた。まず、ペンチを取り出して指先の爪をはがす。

親指の爪と肉との間にしっかりとペンチの先を喰い込ませ、しっかりと固定する。ペンチをひねり、側面からゆっくりとはがし、付け根、反対側の側面へとはがしていく。爪はいとも簡単に、恐ろしくきれいにはがれる。爪の剥された後の指先はほんのりとピンク色に染まり、老人の物とは思えないほどにつるつるとしたきれいな皮膚をあらわにした。続けて人差し指をはがし、次に小指をはがした。そこで堂嶋さんはペンチをあたしに差し出し、「やってみろ」と言った。

 正直、あまりやってみたいと思う仕事ではなかった。しかし周りを見れば若いコックたちがあたし達を作業を真剣な表情で見つめている。もちろん、あたしなんかに比べてコックの経験をしっかり積んできた先輩の料理人たちだ。彼らのうち何人かはいずれ人肉料理人になることを目指しているのかもしれない。あるいは単に料理の仕事と言うことに関し、その作業自体に興味があるだけなのかもしれない。替わりにやってみたい人がいるかを聞いたならばきっとほとんどの人が手を挙げるのだろう。しかしいずれにしても彼らが人肉の処理に手を出すことは法律で禁じられている。今、この場でそれができるのは資格を持っている堂嶋さんと、その見習いであるあたしだけだ。

 なればこそ、あたしは彼らの意思を尊重するためにもそれに挑む必要があった。

 左手で中指の付け根あたりをしっかりと押さえるように持つ。とても人間の物とは思えないほどに冷たかった。その手に伝わる感覚だけでなんだかそれがおもちゃのように感じてしまう。血の通った人間だと思わなければ少しだけ気分も和らぐというものだ。言われた通り、中指の爪の左端の方から奥へとしっかりペンチを差し込み、しっかりとグリップを握りしめる。あたしのために残された中指と薬指の爪は小指なんかよりも大きく、親指のように形が特殊でもない。あたしがやりやすいようにとその二本の指をわざわざ残しておいてくれたのだろう。手首をひねるとそれに従い硬直した指も持ち上がる。左手でしっかりと抑え込み、さらにひねりを加えると、爪は左端からゆっくりと剥がれはじめた。一度剥がれはじめた爪は右手のグリップに伝える力に比例して難なくはがれていく。ちょうど古くなったかさぶたをはがす時と同じようなものだ。最後に右側だけがつながった状態からはがす時に少しだけ力が必要だった。爪と指先とが完全に分離した瞬間に手のひらに伝わる感触に少しだけ快感を覚える。同じように薬指の爪を剥ぎ取り、ひとまずひと段落。それはたった一、二分の作業でしかなかったが、気が付くと額にものすごい量の汗をかいていた。今にもまな板の上に零れ落ちそうだった。

 人肉調理の仕事は、技術以上に恐ろしく精神に負担のかかる仕事なのかもしれない。あるいはそれは慣れることによって何とも感じなくなることなのだろうか。だとすると、この仕事を長く続けることは、代償として人として何かを失わなければならない仕事なのかもしれない。

 続いて、皮膚をはがす。

 皮膚は弾力が強く、そのうえ意外と分厚い。調理法によっては食べられなくもないが、あまり可食部として向いているとは言い難く、今回は剥いだ後に廃棄処分することになる。廃棄処分とはいえ、そのあたりのごみ箱に捨てるわけではない。元の発泡スチロールに先程の爪と一緒に収め、遺体管理業者に返却して供養してもらうことになるらしい。

 堂嶋さんはまず、手の甲の付け根部分。すっぱりと切断された手首部分にペティナイフの先端を差し込む。刃を上にし、肉を傷つけないように差し込むと、一気にその刃を中指の先端まで走らせる。青白い手の甲に一直線の裂け目が走り、中から薄紅色の肉が覗く。まるで左右から引っ張っているように間隔が開き、皮膚の先端は反って上へとめくれ上がる。

 ペティナイフを一度置いた堂島さんは右手に手術用のビニール手袋をはめ、めくれ上がった皮膚の端をしっかりとつかむと、指先に向けてしっかりと引っ張る。めりめりめりと音を立て、皮膚は一瞬にして剥がれる。まるで革の手袋を力任せに脱いだ時のように皮膚は裏返しになってはなれた。中から理科室の骨格標本のような赤い筋肉と白っぽい薄紅色の筋がはっきりと確認できる。手の形をした肉の塊がまな板の上に残る。こうなるとそれはすでに少しだけ食材っぽく見える。食べるための肉だと言われればさらに少し気が楽になるだろう。

 まず、牛刀を親指と人差し指の間にある盛り上がった筋肉、拇指対立筋に刃を入れ、それを切り裂くようにナイフを前後させて、親指を手首の付け根の方で切り離す。上手くナイフを入れれば手首の根元まで骨に引っかかることなく切り離せるのだが、最後、手首の部分の骨は大きくてしっかりしているので、牛刀の上に左手のひらを置き、抑えるように固定して全体重をかけて一気に切り落とす。切り離された親指は根元から一本の長い肉の棒となり、まるで初めからとても長い親指をしていたかのようにも見える。

 続いて、同様に今度は人差し指と中指との間にナイフを入れる。しっかりと手入れされ、切れ味の鋭いナイフは本来ある指の股を無視し、手首の手前まで割ける。最後に、手首の部分の骨は太くて丈夫なので体重をかけて切り落とす。数分もしないうちに五本の長い棒状の骨付き肉の棒が出来上がる。ひょっとしたら自分の出番もあるかもしれないと構えてはいたが、堂嶋さんは自分一人だけでその作業をこなした。フランスのゲランド産の塩をたっぷりとふりかけ、両手でマッサージをするように擦りこむ。タッパーにローズマリー、エスタラゴン、セージを枝ごとしっかりと敷き詰めた中に五本の肉棒を並べ、さらに上からもハーブをしっかりとかぶせて、オリーブオイルを少量たらしてふたを閉じた。これで下ごしらえは終了らしい。

 息を呑んで見つめていた周りのコックたちも「ふうー」と嘆息するもの、額に汗をかいているものと様々だった。一通りかたずけて荷物を抱え、芹沢家へと出発する。

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