第4話 おじいちゃん、食べようね

 居間に全員がそろう。ミッシェルさんとその奥さんの菫さん。それに娘のアネットちゃん。弟のラファエルと妹のガブリエル。これが今回のゲスト五人だ。それに料理人の堂嶋さんと助手のあたし牧瀬香里奈。

 七人で食卓を囲み、おもむろに堂嶋さんが口を開く。

「それではみなさん。故人、アベルさんについて話してもらえますか」

 優しく微笑みながら、彼はそういった。

「では、わたしから」とはじめに話し始めたのはミッシェルさんだった。「父は、とても優しい人でした。普段は頑固で、気難しい人だと思われがちでしたが、本当はとても優しい人物でした。それは、ここにいる誰もがそのことを知っている。それが何よりもの証拠ではないでしょうか。   

そして父は、母をとても愛していました。我々兄弟の誰もが母の腕に抱かれ、そしてその母を包み込んできたのが父でした」

故人アベルさんについての語らいは二時間ばかりに及んだ。本当はその場にいる誰もがその話を続けていたいと思っていたが、時間がいくらでもあるというわけではない。しかし、その時間で十分にアベルさんが皆に愛されていたか、アベルさんが皆を愛していたのかが理解できた気がする。

「では、次にアベルさんの仕事場を見せていただけますか?」

 アベルさんの仕事は農業だった。アベルさんの生まれ育ったフランスは華やかで洗練されたイメージを持たれがちだが、その産業のほとんどは農業と言う農業大国だ。祖国フランス農業を進歩させるため、アベルさんは日本へとやってきた。そして日本の農業を勉強する上でこの北陸に住む芹沢家にたどり着いた。

 日本の農業は生産量こそはそれほどではないが、その品質、技術力は共に世界中のあらゆる国を凌駕している。丹精を込めたきめ細やかな仕事は言うまでもなく、その品種改良こそにその神髄は隠されている。交配に交配を重ね、何十年と言う歳月を経ながら、何世代も引き続けることによってできたその苗こそが日本の農業の至宝だと言える。芹沢家の育てる野菜の素晴らしさにたどり着いたアベルさんは先代の主に頼み込み、ホームステイをしながら農業に従事した。そこで得た技術をフランスに持ち帰り、フランスの農業に貢献しては再び芹沢の家へと帰ってくるという生活がしばらく続いていた。

 おそらくその理由は芹沢さんの育てる野菜だけではなかったかもしれない。先代の芹沢家がもうひとつ、丹精を込めて育てた存在、娘の小百合さんにもまた惚れこんでいたのであろう。ついにはアベルさんも日本の地に深く根を張ることを心に決めた。

 三人の子に恵まれ、さらに多くの野菜の品種改良にも成功した。その野菜の栽培法はさらに息子のミッシェルさんが引き継ぐことになった。

 ミッシェルさんはあたし達に自らの、そしてアベルさんの農園を案内してくれた。山奥の急斜面に様々な野菜が栽培されている。それは決して野菜の栽培に適した場所とは言い難い。だからこそ野菜はその実の中に生きる力を強く宿し、その遺伝子を子孫へと伝える。だからこそこの地の野菜は美味いのだとミッシェルさんは語った。

 次にミッシェルさんはあたし達に彼の部屋を案内してくれた。そのうち片付けばならないのだろうと語っていたが、まだアベルさんがこの世を去ってから日も浅く、部屋は生前彼が生活していたころから何一つ片づけられていない状態だった。その書斎ともいえる彼の自室は彼の生前、子ども達、ミッシェルさん立は決して立ち入らなかったという。禁止されていたわけではない。ただなんというか、その小さいなへやには独特の匂いが立ち込めており、それがアベルさん自身をイメージさせる一つの匂いを形作っていた。その印象があまりにも強すぎるため、皆はこの小さな書斎をアベルさん専用のスペースだと思い込むようになったという。

 襖のさん(敷居)はいくぶん埃が詰まっている様子でうまく開かなかったが、おそらく本人以外が開けることもほとんどなかったであろうその場所は長いあいだそのままで放置されているらしかった。

襖を開けて部屋に入ると、たしかにそこには独特の匂いがあった。アベルさんは読書が趣味らしく、新旧さまざまな本が所せましく積み重ねられている。扱われている言語も日本語にフランス語、英語にドイツ語の本まである。もしかするといくつかのお宝が眠っているのではないかと思いたくもなる。稀覯本と言うものは時としてものすごい価値があるのだと聞く。しかし、もしかするとこの匂いは少しばかり査定に響くものだろうかとも疑ってしまう。

やにの匂いだ。本の装丁自体はそれほどいたんでいる様子はないが、紙自体は少しばかり黄ばんでいるように思える。書斎の卓袱台の上には革張りの装丁のフランス語で書かれた四巻だての『ドン・キホーテ』の三巻がページを開いたままでおかれており、そのわきの灰皿には溢れんばかりの煙草の吸殻が詰め込まれている。脇にはまだ半分ほども残ったスコッチウイスキーのボトルがあり、いつもそこに座っていたであろう人物の生活をしていた様子がそのまま見てとれる。アベルさんは酒とたばことをこよなく愛し、医者に健康のために少し控えるように度々言われていたが、その量を減らすことはなかったという。

『酒とたばこがあってのわしの人生じゃ。それがなければ残りの余生、何年生きたところでわしの人生ではない』

 それが彼が座右の銘のごとく繰り返し言っていた言葉らしい。結果、酒とたばこが死の直接的な原因ではなかったが、いくぶんそれをむしばんだことは間違いないだろう。しかし、そのことを彼は悔いている様子はない。

 堂嶋さんはそこに歩み寄り、ちゃぶ台の上に置いてあるスコッチウイスキーのボトルを手に取った。天井からぶら下がる照明にその深緑色の瓶を透かし、

「アードベックの15年、いい趣味をしているな」

 と、つぶやいた。まじめに仕事しているのだろうか……

「スコッチ、お好きなんですか」ミッシェルさんが言った。

「特にこのアードベックは素晴らしい。こんなに癖が強いのはアイラモルトの中でも他に例がない。アイラのモルトはその強い潮風のせいでピートに独特の海藻の匂いが加わる。それが癖となってアイラモルトを嫌う人もいるが、その良さに気付けばもう、他のものでは物足りなくなる」

 堂嶋さんは少し興奮しているようだった。

「よかったら持って行ってください」ミッシェルさんが言った。

「いいんですか?」

「うちには酒を飲む人がいないんです。こんなところにいつまでも置いていても仕方ありませんから」

「そうですか、そういうことならありがたくいただきます」

 堂嶋さんはうれしそうにそれを小脇に抱えた。

 その日の仕事はそれで終わりだ。

 あたし達は玄関を出たところで芹沢家の五人に見送られた。

「それでは明朝また伺います」

 と堂嶋さんは挨拶をする。

「うん、じゃーね。どーじまさんあしたもあそぼーね」

 とアネットちゃんが堂嶋さんの足にすり寄ってきた。堂嶋さんがその頭をポンポンと撫でる。

 するとアネットちゃんは少しばかりほおけて、堂嶋さんのその手を見つめた。

「どうしたのアネットちゃん?」

 あたしが腰をかがめて聞くと、アネットちゃんは呟いた。

「あのね、アタシね。おじいちゃんがそうやって頭をポンポン撫でてくれるのがとっても好きだったの…… おじいちゃん、もう……会えないんだね……」

 大きなグリーンの瞳の輝きが一瞬にしてぼやけた。あふれ出した涙を、小さなアネットちゃんは我慢するすべをまだ知らない。すぐに大きな声を出して泣き出してしまう。

 きっとこの子はつらかったんだろう。大好きなおじいちゃんが死んでしまったということがどういうことなのかわからない歳ではない。でも、周りの大人たちはまるでそのことが素晴らしいことのように、常に笑顔で笑っているから、自分もそうしなければならないと思っていたのだろう。そしてまだ若いアネットちゃんはこれから先、何度も何度もこうやって大事な人が失われていく経験を繰り返すのだろう。そうして人は少しづつ大きくなっていく。そうして人が死んでも笑って見送ってあげるすべを身につけていくのだ。その点において自分よりも先を歩くアネットちゃんを少しばかりうらやましく思う。

 あたしはアネットちゃんをぎゅっと抱きしめた。小さな体がその腕の中で小さく震えている。

「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。おじいちゃんは決しいなくなってしまったわけじゃないの。これから先、アネットちゃんと一緒に生きていくのよ。

 あした、おじいちゃん……食べようね……」

「うん……」

 アネットちゃんはそれからもうしばらく泣き続けた。

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