第3話 山奥の農家


その家は道路もろくに舗装されていない山奥の農村地で、一家はその農村地で農業を営んでいた。まかり間違っても裕福とは言えない家庭環境で、今回のように遺族が亡くなったと言うわけではない限り、人肉を口にすることはまずありえないだろう。

今回亡くなったのは芹沢アベル。七十四歳。生まれ故郷はフランスで、日本の農業を勉強するためにこの地にわたり、そこで出会った妻、小百合と恋におち、結婚に至る。妻、小百合は六年前に他界している。三人の子に恵まれ、ささやかながらも幸福な生涯に幕を下ろした。

あたり一面畑と山とに囲まれたのどかな一軒家にたどり着いたあたしたちを出迎えてくれたのは芹沢ミッシェル四十三歳。フランス人ハーフということもあり、背も高く容姿端麗な人物だ。年のころはおそらく堂嶋さんと同世代なんだろうが、言うまでもなく芹沢さんの方がいくぶん若く見える。笑う時に寄る顔のしわが随分優しそうな印象を与える。

芹沢さんはあいさつ代わりに堂嶋さんにハグをして、続けてあたしにもそれをした。今まで男性と交際した経験のないあたしはその行為に少しばかり気恥ずかしい想いがあった。

「お久しぶりです。堂嶋さん」

 流暢な日本語(当然だ。日本で生まれて日本で育った)であいさつをしてくれた芹沢さんはかつて堂嶋さんと会ったことがある様子だった。聞けば、何でも六年前、アベルさんの妻、芹沢小百合さんが亡くなった時、彼女の調理を担当したのも堂嶋さんであったらしく、その時の料理にいたく感動したアベルさんは、ぜひとも自分の時も堂嶋さんにお願いしたいという遺言を残していたという。

「この度はご愁傷さまでした」と、堂嶋さん。「まずは故人にご挨拶を」

 芹沢さんはあたし達を奥の床の間に案内してくれた。簡素ながらもきれいに整えられた祭壇にアベルさんの優しそうな笑顔の遺影が出迎えてくれる。しかし遺体はそこにはない。

 昔の風習では人が死ぬとその遺体を何日かの間床の間に飾っておき、別れを惜しんだ後、燃やして灰にしたというが、人が人肉を食べる習慣を始めてからと言うもの、遺体はすぐに政府が引き取り、しかるべき処置(血を抜いて防腐処置を行い、冷凍あるいは氷温で貯蔵、熟成させる)を施すため、通夜や葬式に遺体そのものはない。替わりに故人が身につけていたものや愛用していたものを祭壇に飾る。魂は体を抜け出し、モノに移ると言われている。

 それら魂を鎮めるために香を焚くのだ。

 あたしと堂嶋さんとは祭壇の前に座り、生前一度もあったことのないその人物の魂に手を合わせる。アベルさんが亡くなってからのこの数日の間、この部屋では延々とお香がたかれ続けているのだろう。部屋と言う部屋のすべての物。襖や障子、畳のいぐさにまでそのにおいはしみついていて、目の前の煙を上げているそれ自体以外のいたるところから線香の匂いが漂ってくる。

あたしは正直この匂いが好きではない。死者は肉体を失ったので食べることができない。かわりに匂いを嗅ぐため、こうして良い香りを焚いてあげるらしいのだ。だからお供えするお菓子なんかもなるべく匂いが強いものを選び(匂いがよくかげるように包装などははがした状態にする)、その後、肉体のある遺族が食べることが望ましい。

肉体がなければ匂いだってかぐことができないのでは? なんてことは思っても決して口に出してはいけない。とにかく、食べることができないのだ。できことと言えば、生前使っていた体を食べてもらうということぐらいだ。

 霊前に手を合わせたあと、芹沢さんは居間へと案内してくれた。ミッシェルさんの奥さんの菫さんがお茶とお菓子を用意してくれる。奥さんはとてもきれいな人だった。やや切れ長の目の日本人で、少しばかり気の強そうな人だ。山奥で農業を営んでいるせいか、腕っ節はあまり細いとは言えないし、小奇麗なマダムとは言いにくい。しかし、もし彼女が都会でぬくぬくと過ごしたのならばきっとエリートサラリーマンに見初められてエレガントなマダムになったのではないかと思われる。

「今、兄弟たちもこちらへ向かっていますので、もう少しだけお待ちいただけますか」

という彼女の後ろから小さな女の子がひょいと顔を出す。とても可愛らしい子だ。母親譲りのきれいな黒髪に父親譲りの蒼い瞳。堂嶋さんのほうをしばらくみつめ、「あ、やっぱりどーじまさんだー」と叫ぶ。

「こら、」と言う母親の言葉に耳も貸さず、母親のうしろから出てきたその子は堂嶋さんの膝へと抱きつく。

「アネットちゃんかい? 大きくなったねえ。何歳になったの?」

 堂嶋さんはとても優しそうな声でそう言った。彼のそんな態度は初めて見たので少し驚いた。そしてそれ以上にもう、六年もの間会っていないはずのその女の子の名前を『アネットちゃん』と覚えていたことに驚いた。それほどに印象のある子だったのだろうか。

「えっとねえ、もう9歳になったよ」

「そうか、じゃああの時はまだ3歳か。よくおじさんの事覚えていたねえ」

「うん、アタシ、憶えてたよ。おじいちゃんが何度もどーじまさんの話してくれたしぃ、少し前にもおじいちゃん。もうじきどーじまさんに会えるよーって言ってた」

「うん、そうか……」

「ねえ、あそんでえ」

「なにして遊ぶ?」

「えっとねえ、お絵かき。アネットねえ、絵を描くのが得意なんだよー」

 そう言いながらアネットちゃんは堂嶋さんを一人どこかへ引っ張って連れていてしまった。

 入れ替わりに、ミッシェルさんが居間にやってくる。脇をすり抜けていく娘に「あんまり迷惑かけるんじゃないぞ」と娘に注意を促す。ミッシェルさんと奥さんはそろって向かいに座り、三人でお茶を囲った。ミッシェルさんは急須で入れたお茶の湯飲みを両手で抱え、スッとゆっくり口をつける。

「それで、香里奈さんはいつから堂嶋さんの助手に?」と質問をされた。

「実は、いつからと言うよりは、まだわたしはこの仕事に就いたばかりで。実は、今回こちらが初めてになるんです」

「そうですか。ではなぜこの仕事に?」

『仕事の味見として人肉を食べることができるからです。あたしは昔から人肉を食べることが夢でした』とはさすがに言えない。

「はい。食べることと生きることは繋がっています。ですから、食と命とを結びつけることに最も近いこの仕事にやりがいを感じて志望しました」

 と、料理学校の教師と話し合って決めたこのセリフを口に出したのは言った何度目だろうか。

しかし、ミッシェルさんがその言葉を聞くのは初めてだ。

「それは素晴らしい」

 と、純粋にお褒めの言葉をいただいた。そして、

「ならば、あなたは本当に素晴らしい師匠に恵まれました」

 ――師匠。とは、聞きなれない言葉だった。今まで単に〝上司〟としての感覚ではあったが、たしかにこの業界で言うなら〝師匠〟と呼ぶ方がかっこいいかもしれない。

「堂嶋さんは素晴らしい料理人です。亡くなった父も六年前より何度ともなくそれを繰り返し言っておりました。もちろん、わたしもそう思っています。どうかあなたが彼のような素晴らしい料理人になることをわたしも祈っていますよ」

「ありがとうございます」と、とりあえずは社交辞令的な挨拶をして、「ところで……」と続ける。「堂嶋さんはそれほどに素晴らしい料理人なのですか? 正直、いつもは基本的な技術指導をしてはくれているのですが、本格的に師匠の料理を拝見するのは今回が初めてで……」

「ははは、それはそうですね。いつもの練習の中では彼の仕事の素晴らしさはわかりにくいかもしれません。確かに彼の、堂嶋さんの料理の腕は確かです。かつてはそれなりに有名なレストランの料理長として働いていたくらいです。しかし、彼の素晴らしいところはその技術とは別のところにある」

「別のところ?」

「そうです。普通の人肉調理師は遺族たちの味の好みを聞き、それに見合った料理をふるまってくれるのです。しかし、彼は違う。彼の仕事は特別です。どう特別かと言うと……」

 ピンポーン。と、そこで玄関のチャイムが鳴る。

「どうやら弟たちが到着したようです。堂嶋さんの仕事は、見ればすぐにわかると思います。できればあなたにもそうなってほしいと思います」

 ミッシェルさんは席を立ち、玄関に到着した弟たちを出迎えに言った。

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