アベル爺さん右手のポトフ
第2話 アベル爺さん、右手のポトフ
もう春だというのに、北陸の風はまだまだとても冷たい。ことのほかこのような山奥ともなると、まだ冬の装いだ。
アスファルトに舗装されていない山奥の道はところどころに溶け切っていない雪の白さが目立つ。踏みならす土の地面の下にはまだ霜が張っていて、上を歩くとぱりぱりと音が鳴る。林の隙間をぬってやってくる風は容赦なくあたしの頬をかすめ、洗いざらしの肌がつんと突っ張る。
あたしの初出張だというのにもかかわらず、直属の上司、堂嶋哲郎(どうじまてつろう)はずっと黙ったきりあたしの数歩前をもくもくと歩き続ける。
もしかして何かに怒っているのだろうか。それとも単にあたしのことがキライなのかもしれない。初めて会って、自己紹介した時も少し不服そうな顔をした。
「まさか学校を出たばかりの素人が来るとは思っていなかったよ」
彼はあたしに向かってそう呟いた。
それにしても、いくらなんでも素人だなんてとても失礼な言い方だ。これでも通っていた料理学校ではトップの成績で卒業した。だからこそ国家公務員である〝人肉調理師〟の見習いとして就職ができたのだ。
無論、いまだかつて人肉を調理したことはない。それはとても高価な食材で、学校の授業でおいそれと簡単に扱えるものではないし、それを扱うには特別な資格を取る必要がある。料理学校を卒業してプロの料理人になったところでそれを無許可で扱うことは固く禁じられているのだ。
つまり、誰だってはじめは素人なのだ。それを懇切丁寧に教えるのが上司の仕事ではないのかと言ってやりたい気持ちもあったが、あたしだってそれを言うほど馬鹿じゃない。それに、我慢して仕事さえつづければ夢をかなえることができる。それも仕事と言う形でお金を払うどころか給料をもらいながら叶えることができるのだ。
――あたしは、人間を食べてみたい。
人間は、とても高価な食材で一般人の口に入ることはめったにない。人間の死体は政府が高額で引き取り、極一部の富裕層の間でのみ食される幻の食材だ。
しかし、それを取り扱うプロの料理人、〝人肉調理師〟となれば話は別だ。彼らは仕事としてその調理を担当する。当然、そこには味見も含まれる。まるで夢のような仕事だと言えるだろう。
かつては熟練の調理師が国家試験を受けてようやく就職できる職業だったが、近年人肉調理師の数が不足がちで、一部の調理学校を首席で卒業した生徒には人肉調理師見習の資格が得られるようになった。それは、プロの人肉調理師の助手として仕事をし、指導調理師の許可が得られれば晴れて人肉調理師として独り立ちできるというシステムだ。
あたしは人肉調理師になりたい一心で日々努力し、ついにその資格を得る一歩手前まで辿りついた。
「これからお世話になります。牧瀬香里奈(まきせかりな)です。よろしくお願いします」
「まさか学校を出たばかりの素人が来るとは思っていなかったよ」
あたしの指導調理師となった堂嶋哲郎はあたしの自己紹介に対し、開口一番そんな冷たい言葉を放った。
堂嶋哲郎はすらっと背が高く、まるで血が通っていないかのように白い肌の無機質な男性だった。目は虚ろで、どこを見ているのかときどきわからない。頬は少しこけていて、髪の毛には少しばかり白いものが混じる。三十代後半だとは聞いているが、四十を少し過ぎたくらいに見えなくもない。初めて出会った時は、人生に達観しているのか、あるいは生きる希望をすでに失っているというような印象を受けた。
三月の後半、インターンとして堂嶋さんに指導を受け、四月に初出勤してからも数日は彼のアトリエで訓練や道具の手入ればかりをする毎日だった。人肉調理師は人材不足だと聞いていたが、それほど毎日が仕事に追われると言う激務と言うわけではなさそうだ。しかし、同時にそれはなかなかすぐには人肉の味見にはたどり着けないということでもあった。
数日後、彼のアトリエに電話がかかってきた。依頼者からの指名があり、直接現地に向かうことになった。
あたしの、本格的な初出勤である。
現地は、まだ雪の残る北陸の山奥にある農村の一軒屋だった。身寄りのないあたしは都心の料理学校を卒業後、そのまま都心にある堂嶋さんのアトリエに所属するようになった。しかし、この職業は少しばかり特殊な職業で、指名があれば今日のように遠方へ出向くということも少なくないらしい。わざわざこんな遠方へ呼ばれるくらいだ。それはこの堂嶋と言う料理人がそれなりに知名度があるということなのだろう。
人肉調理師にも大きく分けて二つある。
ひとつは国家資格を取り、国家公務員として人肉調理師をこなし、退職した後で人肉レストランを開業している調理師で、言わずもがな人肉は超高級食材、その店の客層ともなれば特別なセレブばかり。いわば人肉調理師の花形ともいえる職業だ。
そしてもう一つの調理師とは、その名の通り国家公務員としての人肉調理師で、その対象は一般人である。
人肉を国家に提供した遺族に与えられる恩赦で、その専門料理人が遺族のもとに出向き、その遺体の一部を遺族に調理して提供するという特別な職業だ。
堂嶋さんはこの国家公務員としての人肉調理師で、今回は北陸のとある人物からの特別な指名でわざわざこの地にまで足を運ぶことになった。
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