第49話 空白の五日間 2
「痛ッ――?」
動揺し、一瞬気がそれた隙をつかれた僕は、力負けしてイルに噛みつかれた……はずなのだが、それにしてはあまり痛みを感じなかった。
イルの犬歯は皮膚を貫けそうなほどに鋭くなっていたのに、それらしき歯が食い込んだ感覚もない。
何かあったのではないかと、反射で瞑ってしまった目を恐る恐る開いてみようとした――その時。
「イル……なにやってるの」
イルとそっくりの声で、しかししっかりと理性の乗った言葉が耳に入った。
イルがのしかかっているせいで視界には彼女の背中しか見えなかったが、僕の目からはその体が斜めに傾いているように見えた。
不自然に、まるで誰かの手で右肩を押し上げられているかのように。
そしてイルの右肩……僕から見たら左側には、彼女の双子の妹が寝ているハズだった。
「ウル……!?」
「ママだいじょうぶ?」
「グルルル……」
「イル! おすわり!!」
「ぎゃいっ」
理性は無くともその命令は身体に染みついたらしく、イルが一瞬にして僕の上から退いた。
イルはそのままウルの前で正座になると、直後に後ろへ仰け反るようにして意識を失ってしまう。
「っ危ない!」
仰け反り、倒れた先は床へと真っ逆さまだ。
僕は咄嗟に体を跳ね起こし、倒れていくイルの体に手を伸ばした。
辛うじて左手を掴むことに成功した僕は、イマイチ力が入らない体を奮わせ、イルを膝の上に寝かせる。
「ふぅ……」
「ママ、だいじょうぶ……?」
ウルの口から先ほどと同じ質問が聞こえてきて、そういえばまだ返事をしていなかったことを思い出す。
僕は左隣に座る彼女へ顔を向けると、微笑みながら頷いた。
「ありがとうございます。ウルのおかげで助かりました……でも、起こしちゃいましたね」
「ううん。きょうは、ねてない」
「なっ!? ……ダメですよ、しっかり寝ないと。大きくなれませんよ?」
局所的にはもう十分大きいけど。
「ごめんなさい……でも、さいきん、ママのようすへんだったから……それで、まえ、いってたのおもいだして。よなかにイルがなにかしちゃったのかもって……そしたら」
「っ……!」
僕がイルに対して覚えていないのかと言ったことから、夜中に何かあったのではと思い立ったのか。
でもそうだとしたら……まさかウルも何日も寝てないのでは!?
それにしては疲れ一つ見せない気がするが、もしそうなら本当によろしくない。
それを避けるために相談しなかったというのに!
「ウル、まさか寝ていないなんてことは……」
「あっ……ねてる! ほんとはおきてたいけど、きがついたらあさになってる」
「……そうでしたか」
ホッと安堵のため息が零れ落ちたが、そうしていい状況とはいいがたい。
要は、ウルは真相を確かめようと毎晩起きていたものの、睡魔に耐えきれずに寝ていたということになる。
今日はまだ寝る前に事が起こったが故に、イルを止めることができたのだろう。
ウルにバレてしまっていて、心配をかけたことに変わりはないのだ。
「すみません。心配をかけました」
「ううん。ウルも、さいしょこわくて、うごけなかった……イルのかお、すごくこわかった……ごめんなさい」
「いいえ、ウルが誤ることはありません。それにイルについては、今回ので一つ思い当たる節がありました」
「ほんと!?」
「はい。でも夜も遅いですから、明日しっかりお話しましょう。僕はもう大丈夫ですから、ゆっくり休んでください」
優しくウルの頭を擦り、微笑みながら寝るように言うと、ウルは少し不満を見せつつも「わかった」と言って再び床に就いた。
しばらくしてウルの意識が無くなったことを確認すると、枕元からスフィが起き上がって僕の肩の上に乗ってくる。
「それでどういうこと? 思い当たる節って」
「……せっかちですね、スフィは」
「うるさいわね。協力してあげてるんだから、それくらい教えなさい」
「ははは。それもそうですね」
僕は膝で眠るイルの頭をなでながら、たどり着いた答えをスフィにだけ先に教えた。
ヒントは少し前、ウルが言っていたことにあった。
つい先ほども「おすわり」によってイルを鎮めていたが、恐らくはこれがすべての原因だ。
狩りすぎによって森の動物を一掃してしまったイルは、それから一切の狩り行為をウルによって禁じられてきた。
その反動が、こうして夜中に表れてしまっているのだと僕は思う。
いわば禁断症状。
本人の意識が及ばないところで、その禁じられてきた欲を発散させようとしていたのだ。
「そんな……傍迷惑な話。ウルは悪くないって、嘘じゃないの」
「いいえ、嘘じゃありません。二人は二人なりに学習して、頑張って今まで生きて来たんです。それを悪いだなんていえませんよ」
「お人良しにもほどがあるでしょ……でも、それならそれでわからないわ」
「? 何がです?」
「あなただけが襲われるって、おかしいでしょ」
「ああ、それでしたら簡単ですよ。ここに居る中で、僕は唯一イルに
「……ああ、そういえばそうだったわね」
一度食い殺した獲物がいる。
一度狩った経験がある。
弱肉強食の中で生きて来たイルだからこそ、確実に狩ることのできる獲物を狙いに来る。
僕が狙われた理由は、そんなシンプルな理由だ。
そして言い換えれば、イルがこうなってしまったのは、僕にも責任があるということでもある。
「これを聞けば、二人はきっとショックを受けるでしょう。でも大事なことですから、しっかりと説明はします。二人は賢い子です。失敗から学べる子たちですから、きっと次はただ禁止するだけじゃない選択ができますよ」
「……そうね」
珍しく穏やかな声で賛同してくるスフィ。
この二人に対してはなんだか甘い気がするのは、僕の気のせいなのだろうか。
「スフィもお疲れさまです。明日は丁度お休みですし、昼間の内にこちらの問題にケリを付けたいので、もう休んでください」
「あなたはどうするのよ」
「流石に休みますよ。正直くたくたですから」
こうしてこの日、午前二時三十五分。
僕はスフィに続いて五日ぶりの眠りについた。
そしてついに迎えた、僕が三度目の死を迎えた日。
寝坊をするのではないかと少し心配ではあったものの、いつも通りの時間に起床することができた。
睡眠をとったおかげか、スフィの魔術に頼らなくてもすこぶる体調が良い。
僕たちは準備を済ませて一階に降りていくと、朝食をとった後に件の説明をした。
その後にネリスとレイルさんも呼び出して、ほぼ同じ説明をする。
二度手間になってしまったが、僕が食べられたことにも触れなければならなかったから仕方がない。後者の二人には、その部分だけを少し改変して伝えたのだ。
予想通りイルとウルはかなりショックを受けているようだったが、僕は二人に対して、スフィにも言った言葉――二人は失敗から学べる子たちだから、きっと次はただ禁止するだけじゃない選択ができるという旨の言葉を送った。
そしてもうひとつ。肝心なのはどうやってこれを解決するか。
要はイルの欲求不満からくる禁断症状なのだから、一度存分に狩りをさせてあげればいい。
僕たちは少し遠出をして、レラの更に南にある山のふもとまで出かけて行った。
たどり着いたのが午後一時頃で、それから二時間ほど自由に狩りをしてきてもらった。
赤と白のエプロンドレスを真っ赤に染めながら森を駆け回る様は、本当に楽しそうで……同時に怖くもあった。
だってほら、メイド服着た幼女が笑顔で血まみれになってるんだよ? 返り血で。
そりゃあもう絶叫物。
ネリスとレイルさんも顔引きつってたし、僕もたぶん引きつってた。背筋が凍る思いだった。
ちなみにここで狩ったものはしっかりおいしく頂く。そういう約束である。
で……二時間が経過し、両手と口に獲物を持って帰って来たイルに、僕は確認と最後の提案をする。
「イル。楽しかったですか?」
「うんっ!! むずかしくなったけど、かりたのしい!」
「それは良かったです。では最後に一つお願いがあります」
「おねがい?」
「はい。僕と戦ってください」
「「……!?」」
僕とイル以外の全員が驚き、顎を落としていた。
「ママと?」
「はい。イルは魔物の姿になって、正々堂々と……あ、もちろん殺しは禁止です。試合ですね」
「おー、なんかたのしそう!」
一度はウルが「ダメだ」と言いたげに一歩出てきたが、理由を察したらしいネリスが止めて、見ているように説得していた。
この試合は、僕が襲われなくするために必要なことだ。
イルとウルには一度負けている。だから標的にされてしまう。
これを覆すには、正々堂々と、僕の方が強者であるということを示さねばならないのである。
「では、始めましょうか」
「うん!」
ノリノリのイルが「はぁぁぁぁ」と力んで見せると、体中から黒いオーラが渦を巻いて放出され、球体になってイルを包み込む。
すると見る見るうちに黒い球体は三メートルほどの大きさまで膨れ上がり、中から狼の形をした魔物が姿を現した。彼女の目は鋭く、昨晩のように真っ赤な光を帯びているが、しっかりと理性を保っているようだった。
僕はそれを確認すると、暴走しなかったことに心底安心する。先に狩りへ行かせたのも、ここで暴走してしまう心配があったからに他ならない。
僕は心の中で安堵のため息を漏らすと同時に、杖を右手に作りだし、臨戦態勢へ移行した。
『ママ、準備はいい?』
「おおっ、声も大人っぽくなるんですね……OKです! いつでもどうぞ」
イルに先攻を譲ると、早速大きなカギ爪を突き立てようと僕へ向かってくる。
流石は俊敏性Bといったところか。
かなり素早い攻撃であったが、見てかわしきれないほどではない。
僕はカウンターで一気に決めようと、軸足に力を、杖にやりすぎない程度の魔力を籠める。
――――――しかし。
「いきます――――よ――」
自分でも何が起こったのか理解できなかった。
急に全身から力が抜け、立っていることもままならないほどになる。
避けるべき攻撃は避けられず……僕の体は、イルのカギ爪によって切り裂かれたのだ。
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