第48話 空白の五日間 1

 五日前。

 入店した僕たちは、レイルさんが眠る向かいのソファに三人で座り、さっそく封書の中身を確認していた。

 レイルさんを先に起こすかどうかも迷いはしたのだが、まあ起きてから知らせてもでもいいだろうとその時は眠らせてあげることにしたのだ。


 結論から言えば、封書には特に僕への依頼は書かれていなかった。

 あんなに丁寧に封をしてあったというのに、文書には差出人の表記もなく、ただただ一言だけこう書き記してあった。


 〝近日中に伺います〟と。


 酒場帰りの酔っ払いが悪戯をしたというわけでもないだろうし、悪戯というには変に手が込んでいたのが不気味であった。

 この時、僕はこれをレイルさんに伝えないようにと二人にいいつけ、そっと衣服のポケットの中にしまっておいた。

 宛名は僕一人へのものだったため、その時が来るまでは変な心配をかけたくないという思いからだ。


 この日はそれ以上変わったことはなく、いつも通りに午前中の客待ち・接客を終えると、午後に依頼訪問を二件済ませて解散した。

 夜はスフィと二人で起きていたものの、イルが前日のような行動を起こすこともなく、翌朝を迎える。


 四日前。

 二日連続の徹夜で、この日は朝から体がかなり重かった。

 とはいえ、仕事を放棄すれば何も知らない皆に負担をかけることになる。そこで僕は、スフィに頼んで疲労回復効果がある〈リフレッシュ〉の魔術を極々軽く施してもらった。僕の体質的に、これくらいでも普通にかけたのと同じ効果が得られるのだ。

 しかしこの日も特に何が起こることもなく、姉妹の寝息を聞きながら翌日の朝を迎える。


 三日前。

 頭が痛い。スフィに再度魔術を施してもらったものの、昨日ほどの効果がない。

 僕は三徹になるが、スフィも二徹しているというのにピンピンしているのが羨ましかった。神獣は僕らと違い、最低限の生命力は主人からの供給がある。疲労は多少あるものの、下界の生物ほど参ってしまうということはほとんどないのだ。


 流石にこの日は疲労を隠すことができず、ネリスとレイルさんには事情を説明せざるを得なかった。

 疲労は出ているもののまだ大丈夫だと必死に二人に言い聞かせ、この日も通常通り営業をする。それからはなんとか滞りなく遂行することができたが、気が付かないところでレイルさんがフォローをしてくれていたかもしれない。

 この日の夜も、イルに異変が起こることはなかった。


 二日前。

 起床とともに急激な吐き気に襲われた。

 スフィに頼み込み、昨日までより強めに魔術を施してもらった。

 これによって四日前の調子くらいには戻ったものの、本当に大丈夫なのかと聞かれてしまう始末。まさかスフィの口からそんな言葉が出てくるとは思いもよらず、理解するのに少し時間がかかった。

 まあ、彼女は僕のサポート役であるわけだから、僕が無理をして危険な目に会われると困るということだろう。

 だが無理がどうとか、そんなことはお構いなしに必死だった。いいや、もうここまで来ると引くに引けなくなっていたのかもしれない。

 真実を最初からこの目で確かめなければ、解決の糸口は見つからないと……。


 気を引き締めなおし、この日も辛うじて通常通りに仕事を終えるものの、この日も何も起こらず。


 一日前。

 体調は芳しくないものの、不思議と昨日ほどではなかった。

 同じ強さで〈リフレッシュ〉の魔術をかけてもらうと、かなり体が軽くなったのを覚えている。

 そしてまた予定通りの一日を終えた夜。

 ついに……やっとその時がやってきた。


 夜中の一時頃。

 体を起こしたイルは、辺りをきょろきょろと見渡した後に、顔をしかめながら頭を抑えていた。

 その目は微かに赤く光り、垣間見える犬歯はいつもよりも若干とがっているように見える。

 発情期というにはあまりに荒々しく、また苦しんでいる様子に、僕は心配であると同時に危機感を覚えていた。


「ハァ……マ……マ……」


 息を荒げ、先日と同じように僕の体の上に乗りかかってくるイル。

 しかし今回は乗りかかってきた段階でほぼ四つん這いになっており、まるで僕がイルに押し倒されているかのような状態だった。


「イル。僕の声が聞こえますか?」

「あ……」


 イルは体をピクリと震わせ、僕の言葉に反応したようなそぶりを見せる。

 しかしその反応には、何か違和感のような物を感じた。

 意思が微妙に感じられないというか、大部分が本能に身を任せているというような、そんな印象を受ける。

 今までも翌朝になると綺麗さっぱり忘れてしまっていたことからしても、本当に無意識なのだろう。

 回を増すごとに症状は悪化しているというのに、これだけは毎度変わらない。

 いや……変わらないことならもう一つだけあるか。


 イルは必ず僕の上に乗ってくる。

 向かいにはウルがて、枕元にはスフィもいるというのに、必ず僕だけを標的にしてくる。

 「ママ」とつぶやいていることからも、これは偶然ではない。僕を狙っていることは間違いないのだ。

 思えば、本当に発情期だというのならそれもおかしなことだ。

 僕の体は一応女性のものであり、同じ女性であるイルが発情期に僕を求めるというのは不自然である。その手の性的趣向がないとも言い切れないが……いや、ないだろう。ないと思いたい。

 あるにしても母親を求めるのはどうかと思う。


 執拗に僕だけを狙うのは何か理由があるのかもしれない。

 もしかしたらそこに解決の糸口があるのではないかと、そう頭の中によぎった時、イルが次の行動を起こし始めた。

 イルはまるで興奮した肉食動物かのように息を荒げ、「グルルルル」と喉を鳴らす。

 いいや、肉食動物かのように……という表現は正しくなかったかもしれない。

 これは肉食動物そのものだ。

 微光を帯びる目は鋭く、血に飢えている獣の目。

 開かれた口からは唾液が滴り、目の前の獲物をどう狩り取ってやろうかとうずうずしているように見えて仕方がない。


「! イル、まさか……!」

「何かわかったの?」

「はい――っぐ!」


 僕の声に、枕元のスフィが小さく返してきた。

 そして同時に、イルが僕の肩にかぶりつこうと襲ってくる。

 僕は咄嗟に腕を動かし、イルの顎を両手で押さえた。

 彼女の平時の筋力は僕と同じCであるため、なんとか抑え込むことができるかと思ったのだが…… 同じCでもイルの方が位が高かったのか、それとも今は魔物状態に近いのか。じりじりと、少しずつ僕の方が圧されてくる。


「ガウッ……ガルルルル……ッ」

「っ……これ、やばいかも……スフィ、支援魔術……」

「……無理よ」

「どう、して――っ!」

「私も寝てないの知ってるでしょ。睡眠は魔力回復も兼ねてる。連日の魔術更新で、もう私も魔力の余裕がない」

「でも……〈リフレッシュ〉しかっ」


 〈リフレッシュ〉の魔術は、いつもスフィがやってくれる通常の回復魔術に比べれば魔力消費が軽いほうだ。

 しかもそれをさらに軽くしているのだから、まだ余裕くらいは残っているはず。

 そう思ったのだが……。


「私言ったわよね。本当に大丈夫なのかって。……今のあなた、私の許容ギリギリの範疇でなんとか持ってる状態なのよ。とっくに効かなくなってる魔術を、無理やり効かせてるの。これが何を意味するか、分からないはずないでしょ」


 スフィが言いたいことは、いわば魔力の暴力だ。

 10の消費魔力で効かなくなった魔術を、20以上の消費で無理やり威力を上げている。オーバーフローさせているような状態だ。

 もちろんこれには限界があるし、一歩間違えれば暴走を起こしてしまう可能性もある。使用者自身にも相当の負担がかかるものである。

 一緒に生命力や体力を浪費してしまったり、実際の魔力消費が増大していたりと様々であるが、スフィの余裕がないという発言が嘘でないことはハッキリと分かった。


「そんな……ぐっ!!」


 スフィの言葉を理解した瞬間に、動揺で腕の力が緩んでしまう。

 大きく口を開いたイルは、ぐっと僕の腕を押し込み――ガブリと、左肩にその歯を突き立ててきた。

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