Wavelet: Running high to the coast

 町にはまだ朝靄がかかっている。露に濡れた草花が夜明けの弱い陽光を受けて金に、銀に煌めく。鳥は遠慮がちに鳴き、通りはひっそりと静まっている。


 スレイはショルダーバッグを抱えなおした。何故か気持ちは落ち着いていた。帽子を少し上げ、空を見上げる。薄い雲の隙間から太陽が傾いている。眩しさに目を細めて雲の動きを追う。クリーム色のスカートを握る手に少し力が加わる。港町までに馬車で三時間ほど。今から市場へ行けば港町へ向かう馬車がまだあるはずだ。


 両親は既に花を仕入れるために市場へ出掛けている。港へ行く馬車は果物の出荷をするためのものか魚を仕入れるために行くもの。花市場を通らぬよう上手くまわっていけば両親に見つからずに行ける。


「…行きますか。」

 口をきゅっと引き結び気合いを入れる。湿気を含んだ風がひんやりと気持ち良い。スレイは並木に沿って足早に市場へと向かった。



 早朝は市場が一日で一番活気づく時間帯だ。値段を競る声が何処からともなく聞こえ、山のように荷を積んだ荷車が行き交う。澄んだ空気の下で人々が忙しそうに歩き、店からは自分の店の今日の一番の商品の値を叫ぶ声がある。手伝いにでてきた子供達が眠そうな顔であくびをしながら木箱を運んでいる。

 そんな騒然とした市場の中を抜け、スレイは青果市までたどり着いた。青果市は市場の中でも南よりの一角にある。港へ続く街道に最も近い場所にあり、市の側から出荷と魚類の入荷のための荷車が早朝と夕方に一回ずつ隣町へと出ている。スレイは周りを見回し、馬車を探した。運が良ければまだ出ていない馬車があるだろう。

「あらぁ、もしかして出ちゃった後なのかしら。困ったわ。」

 かといってここから帰ったら途中の道で両親に出くわしてしまう。しかし市場にずっととどまっているわけにもいかない。どうしようかと迷っているところで、木箱を持って道を小走りに行く見知った人影を見つけた。

 その人物は店の立ち並ぶ通りを過ぎ、荷馬車の止まっている広場の方へと向かった。木箱は見るからに重そうだ。もしや、と期待を持って後をつける。その人物はスレイの予想通りに馬車の側まで来ると足を止め、木箱を既に積んであった木箱の上に重ねた。そして少し弾みをつけて荷馬車の上へ飛び乗った。

「おじさん!」

 もう手綱を握り、馬を出そうとしたその人物は降ろしかかった手を空中で止める。

「スレイさん?どうしたいこんな朝早くに。手伝いかい?」

 その人物は町の中心近くにある果物屋の主人だった。スレイの方を見て驚いたような顔をする。

「おじさん隣町まで行かれるんですか?」

「ああ、そうだけれども?」

 怪訝そうに言い、スレイの顔を探るように見る。スレイは気持ちが高揚してくるのがわかった。深く頭を下げて、老主人に頼む。

「お願いします。もしよろしければ私を乗せていって下さいませんか?お金も払います。お願いします!」

「私はかまわんがねぇ、親御さんは知っているのかい?」

 スレイは一瞬黙る。少し迷ってから再び口を開く。

「父も母も、このことは知りません。でもお願いします。両親には黙っていて下さい。きっと止められるだろうし…。」

「君が隣町に行くのをどうして止めたりなさるんだ?」

 確かに行くなとは言われていない。だがこの町の風習を考えると親が自分を止めるのは必至な気がする。

「…とにかく、お願いできませんでしょうか?」

 老主人は少し迷ったようだが、席を詰めてスレイに空いた場所を示す。

「おじさん、ありがとうございます!」

 スレイは勢いをつけて老主人の横に飛び乗った。スレイが座ったのを確認し、老主人は改めて手綱を握る。馬が歩き出す。

 物珍しそうに見ているスレイに、老主人は真面目な顔をしてスレイの目を覗き込んだ。

「一つ条件があるよ。守れるかい?」

「条件によります」

「条件が呑めないようなら乗せるわけにはいかないよ。」

「何でしょう?」

 ゴクリとつばを飲む込む。

 老主人はスレイを見て目を細めて笑んで見せる。

「夕暮れ前に町に戻ってくること。私が仲間に頼んであげるからそいつの荷馬車にのっけてもらうんだよ。守れると約束しないと馬車には乗せられない。約束できるかい?」

 スレイは輝くような笑顔を返す。

「勿論約束します!ありがとうございます!」


 馬はゆっくりと街道をゆく。南へ延びる道を行けば、たどり着くのは港町。海のある町。馬車の上は、ほのかに甘い林檎の匂いがした。林の間の道を行く。ゆっくりと南下していく。


 たどり着くのは港町。海の見える町。


*****


 林を抜けるとあまり嗅いだことのない匂いがしてきた。風はトティーナで吹くようなものではなく、髪にまとわりつく。鼻を刺激する匂いにスレイは顔をしかめる。微かに風の中に音が聞こえる。風を切るような音だ。


「おじさん、髪の毛も顔もべたべたするわ…。」

「ああ、潮のせいだね。風に乗って海の潮が運ばれて来るんだ。湿気も多いからだよ。海が近いせいだ。ほら、波の音が聞こえるだろう?」

「波の…音…。」

 耳に届く音が波の音なのだろう。話に聞いていた波の音。優しい音。それでいて大きい音だと言う。その通りだと思った。遠くで聞こえるのに、妙に響く。低く、静かで落ち着いた響き。一定のリズムを持って耳に届く。これが、波の音。この風が、海の風。この空気が海の空気。


 道が開けて広場にでる。魚の匂いが鼻を刺す。市場に出る。

「さあ着いた。真っ直ぐ行けば海岸だよ。海岸の右手に船着場がある。帰りは青果市にいる親父に声を掛ければいい。いいかい、くれぐれも気をつけて。夕暮れまでには町へ帰るんだよ。」


 スレイを馬車から降ろし、老主人は林檎を一つ投げてよこす。それを受け取ってスレイは去っていく老主人に手を振る。

「ありがとうございました。約束は守ります!」

 老主人は振り返って微笑んだ。


 風が強くて帽子が飛ばされそうになる。片手で押さえて、もう片方で鞄の紐を掴む。直進し、右折して港の方へと向かう。

 海が近づき潮騒がはっきりと聴こえてくる。市場の店の向こうはただ大きな空があるだけ。あそこに海が広がっているのだろう。人の間を縫って、スレイはいつのまにか駆け出していた。


 ここの市場ではもう朝の競りは終わったらしい。人の数はあまり変わらないが、忙しそうに動くものは少なく、店先で客を呼び込む声も聞こえない。ほとんどの店が休憩をしているようだった。スレイが町を出てからもう随分経っている。きっとこの市場が一番騒がしいのも早朝なのだろう。

 そんなことを考えながら小走りに走っていくと、数隻の小舟が見え始めた。その先には何か白く輝くものがある。それを見て、一気にスパートをかける。並んだ店が途切れた先は石造りの道。道には木造の足場がいくつも突き出し、その間あいだに挟まれるようにして漁船が停泊していた。漁船は水中に立てられた長い木の杭に縄を結んで止められている。そしてその船が浮かんでいるのは勿論水面。その水はどこまでも広がっており、先が見えない。向こうの方で一つの白い線となり、その線にも終わりが見えない。水は空とは違う青さ。水晶がちりばめてあるみたいに透き通り、光を弾いて煌めく。波は石に打ち、砕けてぴしゃりと返る。これが海。


「広いわ…すごい…」


 水面は光って眩しい。でも眼を閉じることは出来ない。


 広くて大きな海。この下にはたくさんの命がある。この先にも幾万か、或いはそれ以上の命がある。そしてそれだけの生き方がある。ここが、生命の生まれる場所。

 世界は大きい。数えきれないほどの道がある。その道を自分で探さなくてはいけない。自分の人生を選びとらなくてはならない。世界は広い。その中にいる自分はすごく小さい。なんて小さいんだろう。


 −−自分が小さかっただけなんだわ。トティーナの小ささは、道の少なさじゃないんだわ。


 なのにそれを、トティーナのせいにしていた。トティーナは小さいけれどもたくさんの人がいてたくさんの生き方を持っている。同じ職業でもその形は同じものはない。狭めて見ていたのは自分自身だ。世界にある道は数え切れない。私は自分の道を歩いてきたのかしら?ストップしている自分。先とか周りとかが見えていない。


「世界って大きい…」


 自分の中だって自分自身で大きくできたはず。狭めていたのは自分自身。世界を目の当たりにした。自分の小ささにもぶち当たった。

 なんて子供だったんだろう。

 今まで無駄にしてしまった時間。もっといろいろなことを見て、考えてくれば。生きる時間は限られているのにそれを自分の手で潰してきた。馬鹿みたいで、悔しくて、泣けてくる。海は広い。広くて青い。波の白い煌めきが目にしみる。かもめが飛んでいる。風に乗って大空へ。空が高い。


「ちょっと!危ないよあんた!!」


 今まで波の音しか聞こえていなかったので、突然の大声にスレイは現実に引き戻された。何かと思って振り返ると、手を引っ張られ後ろへ無理矢理下がらせられる。バランスを失い転びそうになり、片足で数歩動いてとどまる。再び顔を上げる。そこで初めて自分の立っていた場所を知った。どうやら足場のぎりぎりのところに立っていたらしい。あと一歩踏み出したら海へ落ちていただろう。


「ほんっとに危なかったなぁ…。あんなとこにぼーっと立ってちゃ駄目だってば…」

 さっきの叫び声の主だろう。青年がスレイを振り返っていう。細身で背が高く四肢がすらりと伸びた青年で、動きやすそうな上位の裾が随分短く見える。すっきりと整った顔立ちで濃茶、黒に近い色の髪は短く不揃いに切られ、瞳は髪とは対照的な淡い色だ。淡い空色だった。海に移る空の色。

「ああっ!あんた泣いてるじゃんか⁉︎何で?痛かったか?うわあ大丈夫か?ああこれ良ければ使ってくれ」

 青年が慌てふためいてタオルを差し出した。スレイはただそれを受け取る。まだ半ばぼーっとしたままで意識が半分戻ってこない。

「何してたの?海見てた?」

 小さく頷くスレイに青年は問いを重ねる。

「何で泣いてたの?」

 何でこの人そんなこと聞くんだろう。あったこともないのに、と少しいぶかしんで首を傾げると青年は慌てて言葉を付け足す。

「あ、突然って思うよな悪い!でも、すごく哀しそうな顔してたから。」

 言って青年は破顔する。

「話せるようなら話してみなよ。少しは軽くなるんじゃないかな?」

 その微笑みが暖かかった。全てを受け止めてくれるような笑い方だったから、話してもいいかな、と思ってしまった。スレイは自分の中の何かを掃き出したかった。少しでも心の中を整理したかったし、人に話したら本当に軽くなりそうだった。


 スレイは受け取ったタオルで涙を拭うと、もう一度頷いた。

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