Wavelet: Breeze over the waters

 トティーナの町に港はない。陸に囲まれた小さな町だ。町には大きな森がある。その森を中心として町が広がっている。町には緑が多く、中心となる森の他にも、街道を挟んでいくつか小さな林がある。

 隣町は海に面しており、漁業が盛んで大きな漁港も持っている。トティーナの町で魚介類はといえば町を流れる川から釣った魚の他に、隣町から仕入れてきた海の様々な種類の魚や貝が市場の店頭に並ぶ。仕入れてきたものは全体のうちの大多数を占め、市場では珍しい魚に惹かれて足を止める料理人がそこかしこの店で見られる。そのせいだろうかそうではないのか、新鮮な魚や肉、野菜を求める声で朝の市場は非常に活気づくのだった。


 町には若者も多い。しかし、両親についていって町の外に出るような者はほとんどいない。いつからなのか解らないが、若者はあまり町の外には出ないという風習がトティーナにはある。大人になってそれぞれ職を持つと、頻繁に町から出て買い出しに行ったりもするのだが、若いうちは町の中で暮らす者が多く見られる。


 隣町は大きな港町だ。そうして壮大な海が見える。町から出た大人達から聞いた話がある。海は透き通るような碧だという。浜辺に打ち寄せる波は優しく、真っ直ぐな水平線から上がる陽はそれはそれは美しいという。海の美しさは森の優しい美しさと、同じような、違うような、そんな美しさだという。


 スレイは海を見たことがない。本物の海は。生まれてから今の歳となるまでまだ一度も。だから話を聞いてもその様子は想像するだけしかできない。


「こんにちは。」

 菓子屋の店のカウンターにある姿を認めてスレイは声を掛ける。スレイよりも少し幼いその少女は、スレイの姿を見つけると微笑んだ。

「今日はトゥレットじゃないのね。」

 からかうように言うスレイに少女は答える。

「私もたまには真面目に手伝いますよ。」

「たまには、ね。ララナ、好き勝手やってられるのも今のうちだけかもしれないわよ?」

「それなら私もっと好き勝手やっちゃおうかな。」

 くすくすとララナは答える。彼女はこの菓子屋の一人娘だが、彼女はよく店番を従兄弟のトゥレットに頼んでどこかへ行ってしまう。スレイはその行き場所を知っている。しかし、店の主人には教えていない。ララナの代わりに店に立つトゥレットも勿論知っている。

「おばさん泣くわよ?ララナが言うこと聞いてあげないと。」

「だってあそこ凄く気持ちがいいんだもの。見晴らしも最高だしね。…それに、スレイさんまでトゥレットと同じようなこと言わないで。」

「あら?トゥレットにも言われたの?」

「トゥレもお母さんには甘いのよ。」

 ララナの母はよく訪ねてくる甥を至極気に入っており、またその甥自身もララナの母には甘いのだった。


 ララナが行くところは教会の近くの丘の上だ。丘の一番上には大きな木があり、そこからは町を見下ろすことができる。丘のすぐ下には教会と森が見え、晴れている日などは昼寝の格好の場所となるのだ。つまり、ララナは店にいない時は大抵そこで寝っ転がっていると言うわけだ。


「あ、そういえばスレイさん何をお求めですか?」

 思い出したように言う売り子のララナに苦笑しながらスレイは答えた。

「実は散歩の途中で通りかかっただけなんだけど…。うーん、そうね…。店員のお薦めはどれ?」

「今なら焼き立てのクッキーがあるの。新作です!私も味見したけどなかなか美味しかったよ。」

 そう言ってバスケットの中からオシャレに包装された袋を出す。薄い蒼の透明な小袋に、菫色の紙製のリボンがしてあり、中には細かな模様のレースのようなナプキンが畳んで入っている。

「ブルーベリーと葡萄を使って焼き上げてあります。甘さ控えめで美味しいですよ、どうでしょう?」

「へえ、可愛いわね。これ買っていっておやつに食べるのも悪くないかも。」

「ラッピングあたしなんです。実は密かに自信作です。」

「あら結構上手いじゃない。」

 クッキーの小袋を手にとって値段を確認する。ララナの店のものは安い。それでいて美味しい。スレイもララナの店のクッキーは大好きだった。

「一つ頂くわ。あの丘の上に行って食べようかな。」

「あ、あたしのやりたいことやる気ですか?」


 恨めしそうに言うララナに冗談よと笑ってみせ、お金を払って店を出る。通りには街路樹の葉が点々と落ちている。見上げるともう木々が紅葉をし始めていた。乾いた秋風が吹いていく。いつの間にか夏が終わっていた。これから実りの季節になる。

 太陽がもう少しで真上に来る。そういえばスレイはまだ昼食を食べていなかった。

 家に帰ってお昼を食べようかしら。そう思ったら急にお腹がすいてきた。

 角を曲がって、スレイはぐうぐう鳴り始めたお腹を抱えて家まで急ぐ。教会の鐘が鳴り響く。


*****


 家に帰って扉を開けると、美味しそうな匂いが広がってきた。母が食事の用意をしているらしく、台所の方から調理器具を動かす音が聞こえてくる。スレイは扉を閉め居間に鞄をほっぽって自分はソファに寝転がった。クッションを寄せて抱きかかえる。ソファの側の植木が風で揺れる。葉と葉の間から入る陽光が暖かくて気持ちが良かった。

 外からの音は少ない。道には人通りが無く、木の葉の擦れる音が静かに聞こえるだけだ。スレイは瞳を閉じる。瞼に陽があたって暖かい。そのまま寝入ってしまいそうになるような心地よい陽気だ。


「スレイ、ただいまくらい言いなさい。」

 抱えていたクッションをとられ、現実に引き戻されてスレイは再び瞳を開いた。目の前にはエプロンを付けた母親が立っている。怒っているかとも一瞬思ったが、スレイを見るその瞳は微笑んでいる。

「御飯出来たわよ。お腹すいてるんでしょう?」

「お父さんはお店?」

 えいやっと弾みをつけて起き上がる。スカートのしわをのばす。

「私もお昼食べたら出掛けるから。さっさと食べちゃってね。あ、出来れば洗い物も頼みたいわね。よろしく。」

「よろしく…って。私も午後出掛けようと思ったのに。あらやだ、しわ取れないじゃない。」

「御母様にきちんとただいまって言ってればそんなにはならなかったわよ。あ、そうだわ。ついでにララナちゃんのところにお遣い行って来てくれない?」

 スレイは紙袋を母親に差し出した。

「買ってきたわよお菓子なら。御母様。」

 皮肉を込めて笑顔を作るスレイに花のように清らかな微笑みを返して母親は袋を受け取った。

「さすが私の娘ね。当然御母様の頼みも聞いてくれるんでしょう?嬉しいわ。」

 

スレイは脱力した。結局子は母には勝てない。−−のだろう。


*****


 洗い物を終えて少し休んだら、また外に出ることにした。ショルダーバッグに読みかけの本を入れてカーディガンを羽織る。靴に足をつっこんで扉を開けた。何の花だろうか。甘い香りがしている。スレイのうちの庭はコスモスの花でいっぱいだった。丈の高い茎の先に薄桃色やピンク色のコスモスが咲いている。今は満開だがあと一週間もすればしおれてきてしまいそうで、少し哀しい。


 スレイの家は花屋だ。しかし店自体は家から少し離れているので、スレイの父は毎日朝早くから市場へ行き、その後店に直行する。スレイは自分の家の店が好きだ。花が溢れていて、いつも色あざやかで、冬でもその彩は絶えない。花に守られたような店先では、必ずお客さんの笑顔が見える。そうするとスレイも微笑みたくなる。そんな空間が好きだ。

 スレイの足は門を出て北へと向かう。町の中心の方へ。丘の上にある大きな木が歩いている道からも見える。その下には教会の鐘楼。塔の上には金で塗られた翼をつけた天使が座って笛を吹いている。少年だろうか赤子だろうか。天使の顔は愛らしいが何処か切ないところがある。陽の陰り具合で表情が変わって見えるのかしらと、以前近くで見たときに思った。そんなことを思い出しながら少し小走りになって道を行く。夕方になってしまっては、町の全貌が見えなくなってしまう。日が沈むときの朱に染まっていく町ではなくて、ありのままのトティーナが見たかった。胸に上る想いがどんなものなのか、まだよくわからないけれども。


 一面に生えた緑の芝を踏んで丘の上まで駆け上がる。少し肌寒く、これから冬に向かうのだということを肌で感じた。夏は終わった。実りの秋が来る。夏の実りとはまた違う、豊かで暖かい秋の実り。夏の祭が終わってしばらくたつ。これから一年の暮らしを無事に過ごすために、町の人々は毎日働き通しだ。そして子供達も次の一年を考え、様々な出来事を探しながら動き始める。

 風は強く、そしてスレイの周りを駆けて丘の下へと飛んでゆく。スレイは丘の上を目指す。向かい風に向かう。てっぺんの大きな木を目指して。その下の木陰へと走っていく。高鳴る胸の鼓動は走ったせいか。それにしては得体の知れない激しさがある。この気持ちは不安というものなのか、それとも焦りなのか、何に対してこんなにも脅えている?この町にいて何に脅える?スレイには自分の心の中が見えなかった。


 丘のてっぺんに走り込む。木の根元に立って町を見下ろす。標高が高くなったせいかここは風がより強い。スレイの結った髪はばらつき、羽織ったカーディガンはなびいている。町の北側から吹いてくる風。冷たいけれども痛くはない。トティーナの町の風だ。決して厳しくはない風。この風は、人々を飢えで苦しめることはない。


 天気は快晴。空は青く、澄んでいた。町の屋根が日の光を照り返す。森の木々は少しずつ紅く、黄色く染まっている。道にもちらほらと朱や橙の葉が落ちているのが見える。少し遠くの方には市場が見える。市場の向こうには隣町へと続く街道がある。その道は海のある町へと続いている。


 この町は平和だ。

 スレイの心は何かでいっぱいだった。その奥がスレイには見えない。

 この町は平和だ。四季折々の草花が咲き、森は冬へ向けての実りをくれる。町を流れる川の水は清く澄み、肥沃な土地を作り人々の暮らしを潤している。夏から秋にかけての収穫は多く、そのおかげで冬でも飢えることはない。厳しく体中凍えてしまうような寒波も来ない。冬に雪が降っても田畑を全て埋めてしまうこともない。森から採れる薪のおかげで暖炉は明々と燃え、家々の明かりは点り人々を微笑ませる。誰にも帰る場所があり、迎えてくれる家族がある。必要なものは周りにある。恵まれていて、そして守られている土地だ。トティーナは平和だ。他に表現方法が見つからないぐらい平和で小さい。


 スレイの胸に上る気持ちは学校で教師に言われた言葉が原因だ。スレイの年頃になると必ず大人から言われる言葉。


 −−お前達は何になりたいのか。


 騒然とした教室で妙に響いた言葉だった。




「これから何になるかは自由だけれども、何かになるなら今からいろいろやっとけ。」


 普通に聞いていたと思う。始めの方は。


「沢山経験しておけば色々な道の中から選べるようになる。お前らなら店の手伝いとかやってる奴も多いから店を継ぐのも悪くはないだろうな。だからってそれ以外の他の毎日見てる色に就くのもいいし、選ぶのはお前ら自身だ。」

 何になろうか、確かにお店を継ぐのも悪くはない。でもやっぱりララナの家みたいな菓子屋もいい。それだったらもっと料理の技を磨かなくてはいけないだろうか。

 無意識に、単純に町の中で働くことを考えていた。あまり自分の中を見ていなかった。何も疑問に思わず、すぐ職に就けると思っていた。


「お前が決める道だから、お前が決めろ。この町の中で働くのもよし。外へ出たっていい。」


 その言葉を聞いたとき、スレイの身体に衝撃が走った。

 視野の狭い自分を思い知った。自分の心も見えていなかった。外で働くことも考えていなかった。平和な世界に溶け込んでいたから、外のことが見えなくなっていた。小さな町にいたから、外に自分のしたいことがあるかもしれないなんて考えていなかった。



 そうだ。あの時だ。自分の愚かさを知ったのは。

 町の全貌。こんなに小さい。丘の上から見下ろすことができるほどここから全体を望めるほど、トティーナは小さい。狭い。そして安全で、恵まれている。


 私は無知で馬鹿な子供だわ。


 この町は世界に比べたら豆粒より小さい。今まで町の外のことなんて考えなかった。目の前にあるものしか見ないで生きてきた。見えていなかった。


 私のやりたいことって何かしら?


 本当にやりたいこと。慌てて振り返ってみる。考えてみただろうか?ある気がする。本当に自分が好きなこと。自分の中を慌てて探してみようとする。でも何かごちゃごちゃと固まっているものに邪魔されてよく解らない。気持ちだけ先走っていく。今まで真剣に悩んでこなかった報いがここで来たのだと感じる。しっかり見つめていればよかった。外の世界にあるかもしれなかった。自分の本当にやりたいことが。やらなくてはいけないことがあるかもしれない。


 見てきたものは酷く小さい。だから自分のやりたいことすら見えない。自分の心に。あるような気もする。ずっと夢見た生活があるような気もする。でもそれは本当に私の夢だろうか。見てきたものは小さくてそして少ないんじゃないだろうか。急に不安になる。箱の中は小さいのに。箱の外は大きな空間なのに。外に出ようと何故考えてみなかったのだろう?

 何かやりたいことを見つけなくては。今まで自分は真剣に考えなかった。時間を無駄にしていた。困ることなんて何もなかったからその場所に甘えてはいなかったか。なりたいと思っただけではなれないものも沢山ある。過ぎた時間をもっと有効に使っていなければいけなかったんだ。何か決めても今からやったのでは遅すぎるかもしれないのに。


 スレイの心は焦燥に駆られる。寒いくらいなのに頭の中が一杯で汗がにじんでくる。額を滑り落ち頬を濡らしていく。


 同級生も皆、将来のことなどあまり考えていないだろうと思い込んでいた。なんて愚かなんだろう。生きることは、それほど甘い訳がないのに。周りはそれが解っていたのに。

 教室に満ちた声。それぞれが自分の夢を語っていた。世界に出たいと言っている人も、この街でできる限りのことをしたいという声も、一つ一つ、重くスレイの耳に届いた。俯いていることしかできなかった。顔を上げたくなかった。その時の自分の顔は、今までの中で一番情けなかっただろうから。上げることは出来なかった。


 私だけ置いてけぼりだわ。


 恥ずかしい。悔しい。でも自分でまいた種。ぼさっとしていたのは自分。いつもその時の状況しか見ていなかった。

 道を選ばなくては。今まで無為に過ごした時間を取り戻さなくてはいけない。そうしなくてはならないのに、一歩も進めない。自分の本当にやりたいこと。見えない。分からない。思い浮かんでくるものはどれもこれもぱっとしないものばかりだ。


 町は夕暮れに染まり始める。東の空は紺に染まっていく。西の空は燃えるようなオレンジ色に染まっていく。沈んでいく太陽が町全体を照らしていく。家々には暖かい明かりが点り始める。小さくて平和な町。森に守られた土地。

 星が輝く。早く帰らないと母に叱られる。もうすぐ丘の上の空は満天の星で飾られるだろう。眼下に広がる街にも夜の明かりが灯り始める。ここは、スレイの安心できる地だ。


 私はこの町に甘えていたんだわ。


 生を無駄には出来ない。適当に学び適当な職に就き適当な一生を終えるなんてまっぴらごめんだ。何故早くそこに気がつかなかった?


 この町が好き。とても好き。愛している。でも、私のやりたいことは本当にこの町の中でのことなのだろうか。外に出たい。外に出たい。世界を見たい。知りたい。

 何という贅沢。我侭勝手に生きてきて、おまけにお次は焦りでいっぱい?笑っちゃうわね、情けない。

 でも、見てみたいものがある。自分のやりたいことを決めるために。駆けていきたいのだ。今すぐにだって。何処へ?


 海が見たい。


 広くて先の見えない壮大な海。空の青さは水面に映るという。光を弾いて輝くという。海。まだ見たことのない海。広い広い、命の源。世界へつながる場所。

 一瞬だって無駄には生きられない。もうすぐ一人立ちしなくてはいけない年頃なのだからもう甘えは許されない。早く見つけなきゃ。早くつかまなきゃ。やりたいこと。進む道。見つけださなくては。

 行きたい。行きたい。今すぐにでも。


 海へ。

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